1: 安息日
イエス様は「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」「人の子は安息日の主なのである」(7、8)と言われました。安息日は、神様が世界の創造の中で聖別された日として、また神様の大いなる救い、出エジプトの出来事を覚えるためにと、二つの理由において遵守することが教えられていました。このことを忘れて、ただ守ることだけに囚われてしまった人たちに、イエス様は、安息日はただ律法を守るのではなく、神様に目を向け、憐みの心をもって出かけていくときだと教えられたのです。
2: 人を人としない行為
人々はイエス様を訴えるために「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねたのでした。つまりここで人々にとっては「片手の萎えた人」は癒してほしいという対象ではなく、論争の材料でしかなかったのです。人びとには「片手の萎えた人」に対する思いやりも、救いの願いもなく、イエス様を陥れるため、訴えるための道具でしかなかったのです。これは人を人として認めない行為です。
3: 癒しの意味
イエス様は「安息日に、自分の羊が命の危機にあるとき人は必ずその羊を助けるだろう、同じように人間を助けることは善いことだ」と言われているのです。イエス様は「片手の萎えた人」を癒されました。それはイエス様がその人を心から愛し、救い出してくださったということなのです。癒しは神様の救いを表す出来事です。
4: 隣に来てくださったキリスト
イエス様はファリサイ派の人々の殺意を知り、立ち去られました。そのイエス様に多くの人々が従いました。イエス様の周りには、癒しを必要としていた人がいたのです。癒しは、イエス様が苦しむ者と共に生きる救いの出来事です。私たちが、病気の時、苦しい時、悲しい時、隣にイエス・キリストがおられるのです。ここに、私たちに対する本当の癒しが与えられるのです。
5: 傷ついた者を救い出す方
ファリサイ派の人々は、律法をもって人を裁き、その裁きをもって正義を貫こうとしていたのでした。ファリサイ派の人々の正義は、傷ついた葦をへしおり、くすぶる灯心を消していく、自分たちの持つ価値観を強制するものだったのです。イエス・キリストの正義は弱きものの痛みを共に担う正義です。イエス・キリストは私たちの弱さを担ってくださるのです。私たちは、このキリストの愛を受けていきましょう。(笠井元)