1: 安息日
今日の箇所は、12章の1節から始まっている「安息日についての論争」として、続いています。 イエス様は7節、8節で、【わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない】(7)また【人の子は安息日の主なのである】(8)と言われました。12:1からの箇所をお話した時にも話しましたが、安息日とは、もともと二つの理由で遵守するように教えられていました。一つは出エジプト記に記されている十戒の第四戒によるもので、神様が創造の時に七日目に休まれ、聖別されたからだと教えます。また、もう一つは、申命記の十戒の第四戒からの理由で、神様がエジプトの国において、奴隷であったイスラエルを導き、救い出されたことを思い起こすために、安息日を守るように教えられたのです。安息日は、神様が世界の創造の中で、聖別された日として、また、神様の大いなる救い、出エジプトの出来事を覚えるために、と二つの理由において、遵守することが教えられているのです。
神様による世界の創造を覚えることは、神様を神様、そして私たち人間はあくまでも神様の被造物であるという、創造主なる神様と被造物である人間という関係を一番に理解することができることでもあるでしょう。私たちは、神様に造られた者なのです。
みなさんも、自分が生まれた日、誕生日は、特別な日として覚えているのではないでしょうか。
幼稚園でも、園児一人ひとりの誕生日ごとに、お祝いの時を持ちますし、またいくつかの月に分けて、6~10人くらいを合わせて、保護者にもきてもらい、誕生会を行っています。この行事を、子どもたちは本当にうれしそうに過ごします。わたしも、今度の誕生日で40才となります。人生100年と言われる現在では、まだまだ、人生の半分も生きていないことになります。神様の創造を覚え、神を賛美すること、それは、自分が神様に命を与えられているということを喜ぶことにもつながるでしょう。
安息日を守ること。それは創造主なる神様を、きちんと創造主として覚えること、そして私たち人間は、神様の愛によって造られた。神様から命をいただいて生かされていることを覚えることなのです。また、「出エジプト」と言うのは、イスラエルの民がエジプトにおいて奴隷とされていた、そこから、民族全体が救われていったという出来事です。イスラエルが、この神様の救いを覚え、その救いの恵みをいただくことが、安息日を覚えることなのです。私自身、自分が生きていく意味も、希望も失い、苦しかった時、神様からの御言葉、賛美歌、その恵みを忘れることはありません。
そのような意味で、この二つの理由「神様の創造」「出エジプト」という二つの出来事は神様の大いなる御業であり、忘れてはならないこと、そしてそのために安息日を必ず守るべきだということは、理解できるのです。
ただ、このイエス様の時代に置いて、安息日を守ることだけに囚われてしまい、神様の愛、神様の恵みを覚えるために・・・というのが抜け落ちてしまった人々がいた。なんで安息日を守るのかを忘れてしまっていた人たちがいたのです。12章の1節からはそのような人たちに、イエス様は、安息日に本当に求められているものを教えられたのです。
この、安息日については、一般的に、イエス様、またイエス様に従う者たちは安息日を守らなかったと考えられることがあります。しかし、イエス様は、【5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」】(マタイ5:17)と教えました。また、実際のところでも、イエス様の十字架と復活後にできた初代教会において、ユダヤ人キリスト者も、また多くの異邦人キリスト者も、安息日を遵守していたそうです。
ただ、イエス様は、安息日を守ること、それはただ律法として守ればよいということでもはく、安息日を守ることから、神様に目を向け、自分の今の生き方を確認して「憐み」の心をもって出かけていく、その「信仰をいただくとき」だと、教えられているのです。
2: 人を人としない行為
今日の箇所は、その後のお話しです。10節において・・・【人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。】(10)のでした。この言葉は、片手の萎えた人がいて、その人の病をどうしてよいのか、本当にわからず、イエス様に教えてもらいたいと心から願い、尋ねたのことではないのです。これは「イエスを訴えようと思って」(マタイ12:10)とあるように、イエス様を訴えるため、陥れるために尋ねたのでした。つまり、人々にとっては「片手の萎えた人」は、癒してほしい隣人ではなく、論争の材料でしかなかったのです。人々にとっては、「片手の萎えた人」の人生、痛み、苦しみ、そのような大切な心のうちのこと、そしてなによりもこの人の「命」自体が、どうでもよいことだったとなっているのです。人びとには「片手の萎えた人」に対する思いやりも、救いの願いもなく、ただ律法によって、イエス様を裁くため、陥れるための道具でしかなかったのです。
これは人を人として認めていない行為だということができるでしょう。人々は、この「片手の萎えた人」を自分と同じ人間としては見ていなかったのでしょう。今日の箇所に登場するこの「片手の萎えた人」によって表される、「病にある者」。それはこの当時の社会においては、ただ病気を持っているというだけではなく、社会において差別されている人、そして罪人とされた人々だったのです。当時、病気の人々は、何かしらの罪を犯したから、その病気になったとされ、罪人というレッテルを貼られていたのです。また、同時に、多くの病気が、当時の医学では、遺伝性のものなのか、伝染するものなのかも解明されていなかったため、おなじ病気になってしまう恐れから、社会の隅においやられ、触れることも、近づくことも許されなかった人々が多くいたのです。罪人とされ、社会からはじき出され、そして、それは一人の人間として認められないで生きていたのです。
人々は、「安息日を守る、守らない」ということ、神様の律法を守ることに固執する中で、隣にいる、苦しんでいる人の痛みを見ることはなく、むしろそのような人を人としない、そのような価値観で生きていたのです。神様の律法、教えを守ること。そのために人を裁き、人を傷つけ、人間と認めることすら忘れてしまっていた。これが、このファリサイ派の人々の生き方、価値観だったのです。ただ、私たちも、ただファリサイ派の人々を非難するだけではなく、自分自身を見直してみましょう。私たちは、なぜ礼拝をしているのでしょうか。なぜ賛美をするのでしょうか。私たちは、今、自分が神様から与えられている愛、そのイエス・キリストによる恵みを覚えて生きることができているのか、自分自身に問い直したいと思うのです。
3: 癒しの意味
イエス様は11節からこのような話をされました。【12:11「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。12:12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」】(マタイ12:11-12)イエス様は、「安息日に、自分の羊が命の危機にあるとき、しかもその人はその一匹の羊しか持っていないという中で、人は必ずその羊を助けるだろう」と言われるのです。そして、それは「善いこと」だ、「同じように人間を助けることは善いことだ」と言われているのです。ここでの「人間は羊よりもはるかに大切なものだ」という言葉では「人間」と「動物」とを比べて、「人間のほうがすぐれている」と、そのようなことを言いたいのではありません。 イエス様は、その当時の常識に合わせた例えをもって、人間の命を救い出すことの意味を教えられているのです。
イエス様は「片手の萎えた人」を癒したのでした。この癒しは、イエス様が人々との論争に打ち勝つために癒しをなされたのではないのです。そのような癒しの行為は、何の意味のない、ある意味、ここにいたファリサイ派の人々とあまり変わりのない次元での癒しの出来事になってしまうでしょう。イエス様は、「片手の萎えた人」を癒された。それは、イエス様が「片手のなえた人」を心から愛し、救い出してくださったということなのです。
癒しは神様の救いの出来事を表す出来事です。イエス・キリストは、この「片手の萎えた人」を救い出されたのです。それはただ、魔法のように、癒しを行ったということではありません。イエス様の癒しは、この人の痛みを知り、痛みに寄り添い、そして、この人と共に生きるという意味で、癒しを行われたのでした。
4: 隣に来てくださったキリスト
イエス様はこの片手の萎えた人を癒しました。その後ファリサイ派の人々はイエス様をどのようにして殺そうかと相談しはじめるのです。イエス様は、このファリサイ派の殺意を知り、立ち去られました。しかし、イエス様の周りには、多くの人が従ったのです。癒しを必要としていた人がいた。イエス様を求め、癒しによる神様の救いの出来事を求め、人々はイエス様に従ったのでした。 癒しを求める人。それは、罪人とされ、社会からはじき出され、一人の人間として認められないで生きていた人々です。もしくは、自分自身で、自分のことを罪人として、受け入れられない人もいたかもしれません。それぞれに、様々な思いを持ちながら、イエス様に癒しを、神様の救いを求めてきたのです。そしてイエス様はそのような、社会で人間と認められないような、弱い者、苦しんでいる者に手を差し伸べられた。そして共に生きてくださっているのでした。
イエス様は、この癒しの出来事を「言いふらさないようにと戒められた」(12:16)と言われました。この癒しは、イエス様が、苦しむ者と共に苦しむ決心をなされた、ある意味、イエス様が自分の命をかけて行われた救いの出来事です。イエス様は、その人の隣人となられたのでした。 この「癒し」の出来事は、決して、伝道の道具とするものではないのです。
いわゆるカルトとされる新興宗教では、「癒し」を見せ、言いふらし、伝道する宗教があります。イエス様がなされた癒しはそのようなものではありませんでした。あくまでも、一人の人間が、人間として生きるために、神様がなされた救いの出来事なのです。癒しは、神様の愛の計画のうちに起こされた出来事です。もちろん、病気が癒されないから、愛されていないということではありません。神様がわたしたちに求められているのは、肉体的に癒されたとか、癒されないということではなく、信仰をもって神様の愛を求めて生きる者となることです。
神様は、私たちを愛し、ただ病気を癒されるということよりも、もっともっと大きな救いの出来事として私たちのために、イエス・キリストをこの世界に送り、十字架という死に送られたのです。イエス・キリストは、私たちのために苦しまれたのです。私たちが病気に苦しむ時、そこにイエス・キリストがきてくださっていることを覚えましょう。苦しい時、悲しいとき、私たちのとなりに、おなじだけ苦しんでおられるイエス・キリストがおられるのです。ここに、私たちに対する本当の心の癒し、そして、罪からの解放が与えられたのです。これが神様の愛です。
5: 傷ついた者を救い出す方
そして18節からこのように言われました。【12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。12:19 彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。 12:20 正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける」
イエス・キリストは「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」(マタイ12:20)者としてこの世界に来られたのです。ここで言われる「傷ついた葦、くすぶる灯心」とは、簡単に言いますと、異邦人のことです。つまり、ユダヤ民族ではない者です。異邦人とは、ユダヤ人たちからすれば罪人、神様の恵みに入れられていない者です。救いのうちに入らない者、つまり、癒しを必要とする病人とも同じような立場にある者です。イエス・キリストはこの「異邦人に正義を知らせる」(18)者です。イエス・キリストは、ご自身が「神様に選ばれた僕、心に適った愛する者」として、そして「神様の霊を受けた者」として「異邦人に正義を知らせる」というのです。
安息日を守らないことから、イエス様を殺そうとしていた、ファリサイ派の人々は、律法をもって、人を裁き、その裁きをもって正義を貫こうとしていたのでした。ファリサイ派の人々の律法による正義は、「傷ついた葦」と表現される、罪人、病人、そして異邦人といった人々を苦しめ、裁き、「くすぶる灯心を消していく」、ように、自分たちの正義を振りかざすものでした。ファリサイ派の人々は、自分たちの持つ正義に当てはまらない者に、自分たちの正義を押し付け、自分たちの価値観を強制するものだったのです。
それに対して、イエス・キリストの正義は、傷ついた葦をおらず、灯心を消さない、つまり、病人、罪人、異邦人といった、当時のユダヤの民からすれば、救いから外れてしまった者たち、そのような弱きものの痛みを共に担う正義だったのです。そして、この道こそが、律法の本質であり、神様の御心です。イエス・キリストは人を生かすということのために、自らが痛みを伴い、罪人と共に生きて、病人を癒しされたのです。それは、最終的に十字架という出来事で表されるように、自分の命を捨ててまで、「神に選ばれた」「僕」として歩まれたのです。
イエス様は、「傷ついたものを裁く」のではなく、そのような傷ついた者を生かすため、救い出すために歩まれたのでした。ここに、神様の愛が示されたのです。イエス・キリストは私たちの弱さを共に担ってくださるのです。私たちはそのイエス・キリストの愛、神様の恵みを共に受けていきましょう。どれほど自分が間違ったとしても、どれほど、他者から非難されようとも、そしてどれほど自分自身を受け入れられないような時にも、イエス・キリストは、そのような私たちを愛して、共に痛みを背負ってくださっているのです。イエス・キリストは、私たちを愛してくださっているのです。私たちは、このキリストによる愛を受け、日々喜んで生きていきたいと思います。(笠井元)