1: 捕えられたペトロとヨハネ
ペトロとヨハネは、3章で足の不自由な男を癒しました。癒されたその男は歩きまわり、躍り、賛美して、二人と一緒に境内に入って行ったのです。その姿を見て人々は驚きました。驚く民衆にペトロはイエス・キリストの十字架と復活の出来事を語り、3:19では【だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。】と言いました。
そこに祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がやってきて、ペトロたちは捕えられました。サドカイ派の人々とは、ユダヤの中では権力を持ち、わりと裕福な立場にあった人たちで、復活を否定していた人々でした。権力者として、このような出来事は厄介で、秩序を乱す存在となっていたのでしょう。ペトロとヨハネは、ユダヤの最高法院の前に立たされていくのです。
2: 聖霊に満たされて
ペトロとヨハネは真ん中に立たされ、【お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか】(7)と尋問されたのでした。ペトロとヨハネはイエス様と同様の立場に立たされているのです。尋問の先には十字架があり、死があると感じていたかもしれません。イエス様の十字架の時、ペトロは結局イエス様との関係を否定し、逃げ出したのです。
しかし、イエス様の時に逃げ出したペトロは【そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。】(8)とあるように、聖霊に満たされて語りだしたのでした。聖霊は私たちがキリストを中心にして生きるように導くのです。
3: キリストを土台とする
ペトロは聖霊に満たされ、この足の不自由だった男を立ち上がらせたのは、イエス・キリストの名、あなたがたが十字架につけて殺したイエスによるものだと告白し、11節からは「イエス・キリストこそ隅の親石、救いを得る土台だ」と言うのです。
イエス・キリストは家を建てるのに一番重要なかなめ石、親石です。人間は、この石、この名以外の何ものからも救いは得ることはできないことを語っているのです。弱い自分、罪を持つ自分がいるけれど、それでも、復活のイエス・キリストを土台とする限り、何度でも立ち上がり新しく生きることがゆるされているという、新しい道が開かれたのでした。
4: 神に従う道
議会は二人を有罪判決にすることはできず、17-18でペトロたちを脅して終わりました。この圧力に対して、ペトロとヨハネは【「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」】(19-20)と答えたのでした。
神に従うか、それとも目の前にある社会的な圧力に従うのか。ペトロとヨハネは神様に従わないことが正しいことではないとして、見たこと、聞いたこと、つまりイエス・キリストの十字架と復活という福音の出来事を語るのです。
今日の箇所からは、神に従うのか、それとも社会の圧力から神様に従わないで歩むのか、どちらが神様の前に正しいかが問われているのです。(笠井元)