1: 神の国は来ている
今日の箇所は、ファリサイ派の人々がイエス様の癒しの活動は、神様からではなくベルゼブルという悪霊の頭からのものだとした場面です。イエス様は、ご自身の癒しの行為が、神の霊によってなされているならば「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われます。イエス様の働きは、今、生きるここに神の国が到来するための働きでした。今日の箇所の「癒し」の出来事もまさに「神の国が来ている」ことを表す出来事でした。
2: イエス様の癒し
イエス様は「悪霊に取りつかれて、目が見えず口の利けない人」を癒されました。私たちは共に生きることが大切だと分かっていると思うのです。しかし私たちが生きている社会は、共に生きることよりも、人を傷つけてでも自分が良い道を進むことを教えてしまっています。これが私たちの生きる現実です。イエス様は、目が見えない人、口がきけない人を癒され、暗闇の世界に光を与えられました。
3: 二つの反応
イエス様の癒しに対して、二つの反応がありました。一つは「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った、素直な反応です。もう一つの反応としてファリサイ派の人々は、その働きを素直に認めることができませんでした。自分たちの「立場」「プライド」というものが邪魔をしたのでしょう。神様の救いの働きは、今この世界においても起こされています。その働きを受け入れるか、それとも拒否するか、二つの反応があるのです。
4: 制限されることのない神の愛
聖霊に言い逆らうことは神様の愛を制限することです。ここでは「赦されない罪がある」と言おうとしているのではありません。神様はイエス・キリストを通して愛を示されました。この愛はすべての罪人のために注がれています。「霊に対する冒瀆、聖霊に言い逆らうこと」とは、この神様の愛を制限することです。
今、この地上は、人が人を傷つけ、苦しむ人をもっと苦しめ、悲しむ人をもっと悲しませるような状態となっています。しかし、私たちは絶望することはないのです。神様はこのような世界を愛されている。イエス・キリストは、今も、この地において、神様の愛が満ち溢れるように働かれているのです。イエス・キリストによる神様の愛は制限されることはないのです。(笠井元)