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2019.7.7 「制限されることのない神の愛」(全文) マタイによる福音書12:22-32

1:  神の国は来ている

 今日の箇所はいわゆる「ベルゼブル論争」とされるところで、ファリサイ派の人々はイエス様の癒しの活動は、神様からのものではなく、ベルゼブルという悪霊の頭からのものだとしたのです。それに対して、イエス様は27~28節において、このように言われました。【12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。】イエス様は、ご自身の癒し、「目が見えるようになり」「口がきけるようになり」「悪霊を追い出す」という行為が、神の霊によってなされているならば、「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われます。

 もともとイエス様は宣教の初め、マタイ4:17において、【「悔い改めよ。天の国は近づいた」】と言って、宣教を始められました。イエス様の働きは、「天の国は近づいた」という働き、つまり「神の国の到来」を教え、また現実として、今、生きるここに「神の国が到来するため」の働きでした。イエス様の教え、福音宣教の言葉、また罪人と共に生きる生き方、そして、今日のような癒しの行為の、そのすべてが、「神の国がきている」ことを表すのです。

 

2:  イエス様の癒し 神の国の到来

 今日の22節において、イエス様は「悪霊に取りつかれて、目が見えず口の利けない人」を癒されました。当時、目が見えない、口がきけないといった、障がい、病気は、本人の罪、またはその家族などの罪によるものだと考えられていました。

 その一つの原因は、当時の医学では「なぜ、そのようになったのか」、「どのようにしたら治るのか」がわからなかったということ、同時にそれが「伝染するもの」なのか、「どれだけ周りに影響を与えるのか」、そのようなことがわからなかった。そのため、障がい者や病人は、「悪霊に取りつかれた」とか「罪を犯した」と言われ、社会から隔離され、罪人として生きていかなければならなかったのです。現代では、医学も進み、どうしてその病気になったのか、またどのようにすれば治るのか、そしてそれが感染するのか、しないのか、イエス様の時代に比べれば、くらべものにならないほど、わかるようになってきたと思います。そのような意味で、障がいを持つ人たち、病人を持つ者が、無意味に、社会から隔離されることは少なくなったと言うことができるかもしれません。しかし、現代でも、わからない病気はあります。ある意味、医学が進んだ今だからこそ、今の医学では解明できない病気や、治療法が見つかっていない病気、また障がいといったものに対する差別は、大きなものとなっているようにも思うのです。

 

 3年前になりますが、2016年には、相模原市では障がい者は「生きている意味がない」として19人の人が殺害されました。この事件を起こした人は、今も、その主張を変えることはなく、「重度障がい者を養うためには、莫大なお金と時間が奪われる」とし、「意思疎通が図れない人間は生きている意味がない」というような主張を続けているそうです。この人がどうして、このような障がい者に対する差別的な主張を持つようになったのか。それには、この今の社会全体に問題があるのではないかと思うのです。

 東福岡教会には、附属の東福岡幼稚園があります。この幼稚園では障がい児を受け入れる統合保育を行っています。今も、様々な病気や障がいをもった子どもが幼稚園にきています。子どもはとても素直で純粋ですが、そのために友だちを傷つけてしまうこともあります。「なんであなたは私と違うの?」という疑問があれば、すぐに、本人に聞いていくこともあります。この前も生まれつきに手に障害を持つ子どもに、「あなたの手はなんで小さいの?」と、何度も聞いた子どもがいました。これはその子を傷つけようとして言っているのではなく、純粋に疑問だったということです。そして、だからこそ、そこから教育が必要となるといえるのでしょう。人間には違いがあること、違いの意味、そしてその大切さを学ぶこと。すべての人間が神様に愛されて、神様に創造された者として、大切にされていること。など。子どもたちはすべてを含めて、友だちと関わることの意味や大切さを学ぶのです。子どもはとても素直です。そのことを理解すれば、お互いをそのままの姿で大切にすりことを受け入れていきます。

 ただ、現代社会の教育の流れを見ていきますと、小さい頃は、「おともだちを大切に」と教えながらも、小学校、中学生、高校生、そして大人へと成長していく段階で、「共に生きる」ための教育が、いつの間にか「競争」に変わっていきます。そこで教えるのは、隣の人を大切にすることから、ただ、自分自身のためだけに生きることを教え始めます。競争のなかで、できる子、できない子と分けられ、社会において認められる人間と、認められない人間とされていきます。そのような教育のなかで、いつからか、隣の人と共に生きるのではなく、隣の人と自分を比べ、自分が勝っていると思えば、隣人を軽蔑し、自分のほうが負けていると思えば、自分を否定してしまう、そのような差別の心が生まれていくのです。東福岡幼稚園を卒園して、そのような社会の荒波の中で、戸惑っている子どもがいるということも聞いています。

 

 私たちは、人にやさしくすること、困っている人を助けること、共に生きることが大切だということは分かっていると思うのです。しかし私たちが生きている社会は、人にやさしくすること、困っている人を助けること、共に生きることよりも、人を傷つけてでも、自分だけが良い道を進むこと、他者に勝つことを教えてしまっている。社会は、勝ち組となるためにどのようにすればよいのか、つまり、自己中心、自分が一番、自分だけがよければそれでよい、自分にとって必要のないものは価値がない、そのようなことばかりを教え、また学んでしまっているのです。そのような社会において、「障がい者は生きている意味がない、生きている価値がない」という価値観を持つ人間が育つことは、ある意味当然のことと言えるのではないでしょうか。これが私たちの生きる現実です。

 今日の箇所において、イエス様は、目が見えない人、口がきけない人を癒されました。それは、目が見えないといけない、口がきけないことは悪いことだ、とされた価値観でなされたのではないのです。イエス様は「悪霊からの解放」をなされた。イエス様は、差別され、苦しみの中に生きていた人を癒し、その暗闇の世界に光を与えられました。そしてそこに「神の国」という神様の愛の支配を表されたのです。ここで、25節に「イエスは彼らの考えを見抜いて言われた」とありますように、イエス様は、この癒しによって、ファリサイ派の人々から「この人は悪霊の頭ベルゼブルの力によって、このようなことをしている」と言われることは、ご存知であったと思います。

 しかし、イエス様は、そのような中にあって、自分が非難を浴びることを恐れるのではなく、目が見えない人の目を開かれ、口がきけない人の口を癒し、悪霊に取りつかれて苦しんでいる人に自由を与え、解放されていったのです。イエス様は、ここに「神の国」を表されていったのでした。

 

3:  二つの反応

 このイエス様の癒しに対して、二つの反応がありました。一つは23節にありますように、【12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。】のです。これはとても素直な反応だということができると思います。それは、先ほどいいました子どものような反応です。ここでの「驚いて」とは、「気が変になっている」「熱狂的」とも言われる言葉です。この群衆の反応はとても直観的です。この「この人はダビデの子ではないだろうか」(23)という言葉も、いろいろと考えたうえでの言葉ではなく、その時に与えられた「この人には神様の霊が働いている・・・この人こそ、きたるべきメシアかもしれない」という素直な感想でしょう。

 それに対して、ファリサイ派の人々は、これとはまた別の反応を示します。ファリサイ派の人々も一瞬の直観的な思いとしては同じような気持ちをもったかもしれません。しかし、その働きを素直に認めることはできなかったのです。そこには、自分たちの「立場」「プライド」というものが邪魔をしたのでしょう。先ほどの話で言えば、立場や地位ばかりを考えてしまう大人のようだともいえるかもしれません。イエスさまが神様の霊によって、このような癒しを行われていると認めることは、自分たちの立場を揺るがすことになるかもしれない。自分たちこそが一番神様のことを知っているはずなのにという思いから、それ以上の存在を認めることができなかったのかもしれません。ただ、目の前で行われている癒しや悪霊からの解放を見る中で、そこに人間を超えている力が働いていることは認めざるを得なかったのです。そのようなファリサイ派の人々は、このイエス様の働きはベルゼブル、悪霊の頭の力によるものだとしたのでした。

 

 神様の救いの働きは、今この世界においても起こされています。そして、その働きを受け入れるか、それとも拒否するか、二つの反応があるのです。そして、わたしたちがこの世で手に入れようとしている、自分だけが幸せになろうとする価値観、権威や肩書、プライドなどは、この神様の救いの働きを受け入れられない者とします。イエス様が生まれたとき、ユダヤの王が生まれたということを聞いた時、羊飼いは喜んで賛美をして迎え入れました。しかし、当時の王、ヘロデ王は、このイエス様の誕生に不安を抱き、二歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。

 ただ、これは、この世において、知恵を持つこと、権威を持つこと自体を否定しているのではありません。実際にバプテスマのヨハネや、またパウロの先生であるガマリエルというユダヤ教の先生も、イエス様の誕生も、キリスト教の存在も否定はしませんでした。きちんとした知恵を持つことはとても大切なことです。本当の知恵とは、自分を高めるためでも、自分を低めるためでもなく、ただ神様の御心がどこにあるのかを探し求めるためのものなのです。どれほど勉強をして、知恵をつけても、自分の権威、権力を求めて生きることに留まっているならば、それは愚かな行為なのです。聖書ではコヘレトの言葉というところでは、このようにも言われています。【すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ人間のすべて】(12:13)だと。これが知恵を深め、多くの研究を重ね、すべてに耳を傾けて得た、結論だと教えているのです。

 

4:  制限されることのない神の愛

 イエス様は、30節で【12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。】と言いました。ここで、イエス様は、神の霊による働きを受け入れるか、それともその働きを受け入れず、自分のプライドにしがみついているのか、問われているのです。 そして続けて言われました。【12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。】

 

聖霊に言い逆らう者。それは、神様の愛を制限する者のことです。この「霊に対する冒瀆はゆるされない」という言葉から、「霊に対する冒瀆」(31)そして「聖霊に言い逆らうこと」(32)は、どのようなことか。「罪」にも「赦される罪」と、「赦されない罪」があって、何が赦される罪で、何が赦されない罪なのかと、考えられてきました。しかし、ここで言いたいことは「赦されない罪がある」ということではありません。何かとんでもないことをしてしまったり、イエス様を否定したり、神様の愛を受け入れなかったり、逃げ出したとしても、それらはすべて神様の愛の内に赦されています。人間が何かをすることで、神様の愛は変わることはないのです。神様はイエス・キリストを通して愛を示されました。神様の愛、このイエス・キリストによる愛はすべての者、すべての罪人のために注がれていて、その愛がなくなることはないのです。ある意味、この愛は、罪びととされるような者のためにあると言ってもいいのかもしれません。イエス・キリストは、全ての人間のために、この世界にきてくださったのです。そして今も、私たちのために祈り、私たちを愛して、共に生きて下さっているのです。

「霊に対する冒瀆」(31)。「聖霊に言い逆らう者」(32)。それは、この神様の愛を制限することです。つまり、「赦されない罪はない」こと「神の愛はすべての人間に注がれている」ということを否定して「赦されない罪がある」「神様の愛にも届かないところがある」とすること。自分から神様の愛に制限をかけて、「自分は赦されない罪を犯した」としてしまうこと、また他者に向けて、「あなたのしてしまったことは赦されない」と、その神様の愛の道を閉ざしてしまうこと、これが「霊に対する冒瀆」「神様の愛に制限をかける行為」です。この行為は、イエス・キリストの愛に制限をかけて、自分から心を閉ざし、神様の愛を受け入れない行為となってしまっているのです。 

 

イエス様は「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われました。イエス様が教えられた、主の祈りでは、「天にまします、われらの父よ、御名をあがめさせたまえ、御国をきたらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。イエス様は、愛のあふれる神の国が、この地にくるように。この世界が神の愛の業で満ち溢れることを願い、祈り続けなさいと教えているのです。

今、この地では、人が人を傷つけ、苦しんでいる人を、もっと苦しめ、悲しんでいる人をもっと悲しませるような状態となっています。病の中にある人の本当の心の痛みまで、寄り添うことはなかなかなされません。神を愛し、自分を愛し、お互いに愛するということからはほど遠い、闇の広がる世界となってしまっているのではないでしょうか。しかし、私たちは絶望することはないのです。神様はこのような世界を愛された。そして、イエス・キリストはこの世界に来られたのです。イエス・キリストによる、癒しの出来事は、その神様の愛の業がなされた行為でした。この癒しは、暗闇に光が与えられた出来事、絶望の中にあって希望を与えられた出来事なのです。そして、イエス・キリストは、今も、この地において、神様の愛が満ち溢れるように働かれているのです。

 

私たちは祈り続けたいと思います。「御国をきたらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りましょう。どれほどの暗闇があったとしても、そこにイエス・キリストによる愛の業が、この地になされるように、希望をもって、喜んで祈っていきたいと思います。(笠井元)