新約聖書には283回、旧約聖書が引用されていると言われています。その中の41%に当たる
116回が詩編からの引用です。それ程、詩編は初代のキリスト教会で読まれ、歌われていましたし、イエス様もたびたび詩編を引用されました。宗教改革者ルターやカルヴァンも詩編を好み、詩編の註解や説教をしています。新約聖書にも詩編付きというのがありまして、現在でも詩編は多くのクリスチャンに慰めを与えています。私も詩編が好きで、何度となく読んでいます。なぜ好きであるかと言えば、そこには、人間の「なまの声」が響いているからです。歌とは元来、人間のなまの声ではないでしょうか。苦しい時は苦しいと叫び、悲しい時は悲しいと祈り、孤独の時は寂しいと歌う。神が分からなくなったら、神が分からないと嘆きます。楽しい時、喜ばしい時にむろん人は神を賛美するのですが、悲しい、苦しい、寂しいという叫びもまた、神に向かう限り賛美になっているのではないでしょうか。
そのような詩編の中でも素晴らしいものが、今日、司会者に読んでいただいた詩編139編です。今朝は説教のテキストとして詩編139編を選びましたが、この詩編は、5つに分けられます。1~6節は、主なる神はすべてをご存知であるという全知について、7~12節は、主なる神はどこにでもおられるという遍在について、13~18節は、天地万物を造られた創造主について、19~22節は、主なる神に敵対する者について、そして、最後は、23~24節で、静まって、自分の心を見つめる、反省・内省です。
1.主なる神の全知
古い話ですが、1958年平尾昌晃の歌で「星は何でも知っている」という流行歌がありました。「星は何でも知っている。ゆうべあの子が泣いたのも、かわいいあの娘のつぶらな その目に光る露のあと」というものです。私が小学6年生のころの歌です。「ユーチューブ」いうのを知っている若い人は一度聞いて下さい。「星は何でも知っている」ではなく、聖書は「主なる神は何でも知っておられる」と言います。神の全知(omniscience)と言います。これは、何か抽象的なことではなく、「主なる神は私を私以上に知っていて下さるということです。」私たちは自分こそ自分のことを良く知っていると考えています。しかし、詩人は1節で「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」と告白します。また、14節後半で「御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている」とありますが、口語訳聖書では「あなたは最もよくわたしを知っておられます」と翻訳しています。主なる神は、私が、そして皆さんが「座るのも立つのも知り、(ちょっと膝が痛いのも知ってくださり)、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分けわたしの道にことごとく通じておられる。」私たちは心で思っても、言葉で言わなければそれを他人に知られることはありません。いや分からないと思い込んでいます。しかし、「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる」と歌われています。」このことは本当に私たちを慰めます。最近、「自己評価不安」ということが問題になっています。他者が自分のことをどう思っているかが不安であり、人は自分のことを正しく評価してくれないという想いです。会社で上司が自分のことを正しく評価してくれない、部下も自分の悩みを理解してくれない。夫が妻を正しく評価してくれない、いや妻こそ自分を理解していない、学校の先生が生徒の心を見てくれない、親が子どもたちの苦労を理解していない、まさに「わたし」とはまさに他者との関係の中にあるのです。だから厄介であり、自分の想い、自分の努力を何とか知らせようとしても、それは空しい愚痴に終わったり、失望を味わうだけです。しかし、人を愛し、人から誤解されても、裏切られ悲しみを覚えても、言葉に表せない苦悩も、主なる神はご存知であるというのです。本当にわたしが「わたし」として堂々と立つためには、私を知って下さる神の前に立たねばならないのです。そして、実に、主なる神は私を知っていて下さるのです。
しかし、考えようによっては神が私を知っておられるということは恐ろしいことでもあります。過酷な運命に弄ばれ、最終的には韓国の大統領になった金大中さんは、獄中から息子ホンオプさんに宛てた手紙の中で書いています。「第一に、私自身も罪人だということだ。万一、私が私の生涯に人知れず犯した悪しき行いと心に抱いた悪しき思いが、神のみ前に、あるいは、群衆の前に、スクリーンに映し出されるように明らかにされたら、私は、果たして顔をあげて人を見ることができるであろうか」。彼はむろん人間として政治家として、問題もあるのでしょうが、敬虔なローマ・カトリック教徒でした。今日は参議院議員の選挙ですが、このような罪人の自覚のある、だから、神に助けを求めるような政治家を選びたいものです。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしに置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。」この事実を恐れ、この事実に慰められましょう。「主よ、あなたはわたしを知っておられる。」
2.主なる神の遍在
次は主なる神の「遍在」(omnipresence)の歌です。自分の醜さ、弱さを知った時、私たちはどこかに逃げ出したくなります。しかし、主なる神はどこにでもおられるのです。これを神の遍在と言いますが、神の遍在の教えも決して頭で考えだされたものではなありません。それは、私たちを支える恵みの教えなのです。私たちはいつも世界を二つに分けて考えます。光と闇、善と悪、聖と俗、神の支配される世界と神なき世界と言うふうに、です。あまりにも暗い世の中、悪が支配しているように見える領域、もし神が支配しておられるとすれば、それはごく一部であり、光の世界、聖なる領域だけであると考えます。そして、それらの世界がどんどん狭くなっていき、自分は暗いトンネルの中にいるように思ってしまいます。
しかし、詩編139編は、主なる神はどこにでもおられると告白しています。「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし、御手をもって私を導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」人が修行をして、高い天に登り、自らの力を誇り、神をも凌ぐような思いになったとしても、そこにはすでに主なる神がおられるのです。あるいは、やけっぱちになって、絶望して、悪ぶって、深い深い、地の底の陰府で、捨て寝を決め込んでも、そこにも主なる神はおられるというのです。朝早く、太陽が大空に広がっていく、あの速さで、海の果て(当時のこの世界では地中海でしょうか)に逃れようとしても、気が付けば主なる神はそこにいますと歌われます。皆さんは、孫悟空が世界の果てまで行って柱に立ち小便をしてきたと言っても実は仏様の手の平を動いていたというのに似ていますね。三蔵法師がそのように孫悟空をたしなめるのです。私たちが、ここには主なる神はおられないと言い張る処、絶望して、どうにでもなれ、「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」(口語訳)と言っても、「あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。」と歌われています。新共同訳では「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼と共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。」と翻訳しています。同じような信仰がイザヤ45:7にも登場します。「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者、わたしが主、これらのことをするものである。」(1135頁)。神は光と平和だけを創造するという信仰と、絶望的と思われる状況の中においても、主なる神は、闇をも災いをもコントロールされているという信仰とどちらが良いでしょうか。良く分かりません。「闇も、光も、変わることがない」。「やめてくれ、糞と味噌を一緒にしないでくれ」と思うでしょうか。あるいは、主なる神は、天におられ、光の中にのみいますのではなく、陰府にも、闇の中にもいます。神の恵みはあまねく、闇も光も異ならない。主は決して闇を闇として放置されず、「光あれ」と語りかけられるのです。ここに聖書が証しする最も深い信仰が描かれているのではないでしょうか。
3.わたしの創造者なる神
天地万物を造られ、すべてを知り、いずこにもいます主なる神、この偉大な神がこの私を創造されたのです。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」私が存在する以前に、私は主なる神の慈しみのみ心の中に存在しており、私が一日も生活する前に、私の一生はすでに主なる神に知られているのです。「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」私が過去、神を知らずに過ごしていたことも、神を無視して生きていたことも、やがて時がきて信仰を持つようになったことも、そして、主なる神に忠実に生きようとしてしばしば挫折し、しかし、主なる神に従おうとしている今も、将来あるいは躓き悲しみの経験し、にもかかわらず、救いの完成に与るようになることもすでに知られているのです。
4.神に敵対する者
この主なる神の大きさ、圧倒的な愛の深さ、広さを知る時、それにもかかわらず、主なる神に敵対する者たちが存在しているのも事実です。血を流し、神をあなどり、思い高ぶり、悪を行う人たちがいるのです。しかし、私たちキリスト者は、微力ながらも正義と平和のため、愛のために闘わねばなりません。
5.内省
しかし、他者や世界をあれこれ言う前に、大切なことは、主なる神を畏れ、不義を憎む私たち自身がどのような状態であるかということです。「神よ、わたしを究め、わたしの心を知って下さい。」と最初の1節の表現の繰り返しです」。「わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。」この祈りは、敵対する者らに心奪われ、乱される中で、私たち自身のことを祈りにおいて反省・内省することを勧めています。主なる神ご自身が私たちを探り、知り、審いて下さり、赦してくださるように祈らねばなりませんし、祈ることが赦されているのです。
そして私たちもこの詩人と共に、「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない」と主なる神を賛美しましょう。(松見俊)