1: バプテスマ
今日はわたしたちにとってとてもうれしい日です。先ほど3名の方々が信仰告白をしてくれました。信仰はあくまでも神様が選び出し与えて下さったものです。3人は神様によって「信じる者」とされたのです。このような心の変化、価値観の逆転を、わたしは神様の「奇跡」の御業だと思うのです。バプテスマは、人間がイエスを自らの主と告白する時です。そしてイエス・キリストによる十字架と復活を自分の救いとして信じる時です。
私たちはこの信仰告白を自分のこととして喜びたいと思います。
2: しるしを求める
今日はバプテスマの中心、心にイエス・キリストを迎えるということをみていきたいと思います。ファリサイ派の人々は、「しるしを見せてください」(38)と言いました。ファリサイ派の前には、何よりも大きなしるしである、神の子イエス・キリストがおられたのです。しかし、人々はこの神様の一番のしるしである、神の子イエス・キリストを救い主と信じることはできなかったのです。
3: 心の中を整理整頓する
ファリサイ派の人々は神様の与えられた律法に忠実に従う人々でした。ファリサイ派の人は心をきちんと掃除をして、整理整頓していたのです。ただ、そこに救い主を迎え入れるということはしなかったのです。まさにとってもきれいな空き家としてしまっていたのです。イエス様はファリサイ派の人々に向けて、「心を整えるだけではなく、イエス・キリスト、神様の愛を迎え入れなさい」と教えているのです。
4: 悔い改め
イエス様は41節から「ニネベの人々」「南の国の女王」について教えます。イエス様が教えられようとしていることは、「悔い改めなさい」ということです。「悔い改める」ことは、イエス・キリストが心をきれいにしてくださることを信じていくことです。心にイエス・キリストを迎え入れていくことなのです。
5: 心にイエスを迎える
イエス様は「人の子も三日三晩大地の中にいる」(40)と言います。これはイエス・キリストの十字架の死を指し示した言葉です。信仰を得ること、バプテスマを受けることは、十字架に救いを見ることであり、十字架の主イエス・キリストを自らの主としていくことです。そして、それは神様の示された価値観に生きていくということ、「仕えられる者」となるのではなく「仕える者」となることです。
信仰は、自分の行為としてではなく、主の選びによって与えられた恵みです。私たちは、神様の選びによって与えられた愛を受けて、互いに愛し合う者として歩んでいきましょう。(笠井元)