8月は「平和」の問題を考えることを避けられません。そこで、今朝は、マタイによる福音書5:9の「平和を実現する人々は、幸いである」という主イエスの言葉を取り上げます。
1.平和を「実現する」
口語訳聖書では、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と翻訳されています。しかし、人間は平和を造るためにと言って戦争をするのです。むろん、平和を、ただ手をこまねいて待つだけでもだめでしょう。この祝福の言葉は、イエス様との関係に生きることの中でのみ理解されるのです。ここでは、イエス・キリストにおいて、すでに到来している平和を実現すること(realization)、行うことが意味されています。ですから、ボンヘッファーは、「イエスこそ彼らの平和である。… 平和を造り出す人は、その主と共に十字架を担うであろう、なぜなら、十字架において平和は造られたからである。」と言っています。
2.「キリストはわたしたちの平和」である
エフェソ2:13~16では、イエス様が、父なる神に従い、ご自身、身をもって十字架の死へと赴かれ、私たちを愛し通され、当事者相互の敵意を滅ぼしたと言われています。キリストは、この世界において敵対する二つのものをひとりの新しい人に、キリストにあって生きる「新人類」に、一つの「教会」に造りかえて、平和をきたらせ、十字架によって、ひとつの体として神と和解させ、神と人、人と人、人と自然の間の「敵対関係」を十字架にかけて滅ぼしてしまったのです。
3.キリストの平和を「実現すること」
「彼らは神の子らと呼ばれるであろう」という主イエスの祝福を聴くときに、本当に私たちはこの世の人々から「神の子ら」と呼ばれるほど、イエス・キリストの十字架と復活の出来事、キリストにおいてすでに「平和」が到来している事実を実現する課題に生きているかどうか問われています。
4.暴力と差別と抑圧の社会の中で
5.「神の子ら」と呼ばれるであろう
イエス様が言われる「神の子ら」の反対言葉は何でしょう?「神の子ら」の反対語は「野獣・獣の子ら」であると理解しても良いでしょうか。野獣のような暴力、差別、抑圧社会にあって「神の子らと呼ばれるであろう」と未来形で約束されています。50年先か、100年先か分かりませんが、必ずいつか彼ら彼女らは平和を行う「神の子らであったね」と言われるような生き方をしたいものです。(松見俊)