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2019.8.18 「神の主権~種を蒔き、耕す方」(全文) マタイによる福音書13:1-23

1:  すべての場所に種は蒔かれた

 今日の箇所において、イエス様は譬え話として「種まき」のお話をなされました。まず、今日の箇所で一番に見たいのは、この種を蒔く人、種まきの存在です。種を蒔く人は、いろいろなところに、種を蒔いたのでした。皆さんが何か植物を育てるために、種を蒔くとすれば、道端や、石だらけの所、また茨の間になど種を蒔くでしょうか。普通、種を蒔くとしたら、きちんと良い土地を選びだし、その土地を耕し、よく育つ土を作り、そこに種を蒔くものだと思うのです。現代の私たちが、普通に考えれば、道端や、石だらけの所、茨の間に種は蒔かないものでしょう。

 ただ、当時のパレスチナ地方における農業においては、このいろいろなところに種がまかれることは一般的なこと、普通のことであったそうです。イエス様の時代、パレスチナでは、とにかく手当りしだい種を蒔いて、それからその土地を耕し、種に土をかぶせていたそうです。そういう意味では、種を蒔く時点では、その土地が種をどのように育み、実を結ぶようになるかどうかは分かっていなかったということです。種を蒔く。しかしその結果はどうなるかわからない。これが、その当時の農業をする人々の日常の姿であったのです。 イエス様は、当時の、日常の行為を譬え話として話されたのでした。

 このことは、まず、神様の恵みの御言葉が、すべての人に与えられているということを教えているのです。神様は、私たち人間を見て、「この人はよく働きそうだから御言葉を与えよう」とか「この人はちょっと・・・心が曲がっているから、御言葉を与えるのはやめておこう」と、御言葉を与える時に、その人がどのような人間かを、選んでいるのではないのです。このことは、私は、自分自身をみれば、確かに実証されていることがよくわかるのです。もし、神様が人を選んで御言葉を与えていられたら、まず、私のところには神様の恵みは蒔かれてはこなかったでしょう。ここで種を蒔く人は、道端や、石だらけの所、そして茨の間にも種を蒔かれたのです。つまり、私を含め、皆さんにも、そしてすべての人間に、神様は、その御言葉を語り、与えてくださっているのです。イエス様はこのようにも言われました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださる」(マタイ5:44-45)

 今日の話の大前提に、種はすべてのところに蒔かれた。神様はすべての人間に御言葉を与えてくださっている。神様はすべての人間を愛しておられるということがあるのです。

 

2:  種が蒔かれた4つの場所

 そのうえで、ここでは、種が蒔かれた4つの場所を教えます。まず一つは「道端」です。イエス様の説明から見ますと、それは【蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。】(4)、つまり【悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。】(19)という場所、心の状態です。この心の状態は、蒔かれた種、蒔かれた御言葉を、その人が心に受け取る前に、すでにその心の扉は閉じられており、その種は誰かによって無かったものとされ、見ても聞いてもいない者とされていくということでしょう。 

 昨年、教祖である麻原彰晃を含めた12人が死刑されましたが・・・わたしが中学生の時、日本ではオウム真理教という新興宗教による、「地下鉄サリン事件」が起きました。サリンと呼ばれる神経ガス、化学兵器が地下鉄で散布され、多くの死傷者がでたという事件です。すでに今から20年以上前の話になりましたが、日本では、それから「宗教」が毛嫌いされるようになっていったとも言われています。実際、私が友だちを教会に誘うと、中学生のときまでは、疑ったり、怪しんだりということはあまりなく、普通に家に遊ぶような感覚で来ていていました。しかし、「地下鉄サリン事件」が起きたあと、私が高校生になってからは「宗教はやめておく」「親から『宗教に関わるな』と言われたから」と、言われるようになりました。この時、感じたのが、人間の心が閉ざされているということでした。教会に来てもくれない。聖書のお話を聞いてもくれない。教会に誘うと、むしろ私のほうが怪しまれるのです。種が「道端」におちてしまっているような状態。それはまさに、このように人間の心が閉ざされている状態でしょう。ここでは、「鳥が食べてしまった」、そして「悪い者が来て心に蒔かれたものを奪い取る」と言われていますが、まさに、この神様の御言葉を聞くことすらできずに、心を閉ざし、受け入れることができない、そしてその御言葉は奪い取られていく。このような心の状態が、「道端」に落ちた種によって表されているのです。

 二つ目は、「石だらけで土の少ない所」で【そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。】(5-6)。つまり【13:20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。】(20-21)。ということです。聖書は【6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。】(マタイ6:33)と教えます。「何よりもまず神様を求める」のです。根っこのない信仰。それは、「まず神様を・・・」というよりも、「まず自分を・・・そして、自分のために働く神様」を求めている思い、ということができるのです。神様の存在を喜んでいる。しかし、それは神様に、「あれをしてください」「これをしてください」と、まるで自分の召し使いのように考えて、「神様の為に神様の御心を求める」のではなく「自分のために働く神様」を求めてしまっている思いなのです。これが「石だらけの土地」です。神様の御言葉を受け入れるということは、価値観を、「自分のためのキリスト」から「キリストのための自分」へと変換する必要があるのです。この「石だらけの土地」。それはまさに、「自分のためのキリスト」から変えられていない心の状態でしょう。どこまでいっても「自分のための神様」「自分のためのキリスト」を求めていて、本当に根を張り、大きな実りを得ることはできない状態なのです。

 三つ目は、【ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。】(7)、つまり【御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。】(22)。つまり、とりあえず、神様の御言葉を喜んで受け取り、育つのですが、この世での生活、社会への配慮、財産への執着から離れきれない、「ある程度」「ほどほどに」教会生活をする者のことです。自分の生活を維持すること、生活を豊かにしていくことは、人間の生きる基本的願望とも言うことができるでしょう。そのような意味で、信仰に対して「世の思い患い、富」というのは大きな誘惑となります。教会生活はある程度、きちんと行う。しかし、自分が困らない程度に、自分の生活がくずされない程度に・・・というような姿ということができるでしょう。これが茨の間に落ちた状態です。

 そして、四つ目は「良い土地」「御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」という心の状態を表します。皆さんの心は、今どのような状態にあるでしょうか。よく考えてみてください。

 

3:  すべての者のために来られたイエス・キリスト

 この御言葉はとても有名で、私も何度も聞いてきたお話でしたが、この説教を作る中で、今一度、私自身も自分の心を見て考えてみました。わたしは父も母もクリスチャンのいわゆるクリスチャンホームで育ちましたので、小さい頃は、まず神様の御言葉を受けて、喜んで育ちました。ただ、高校生から大学生といった反抗期になっていく中で、神様から離れ、二つ目のように、すぐに枯れてしまうような状態になり。そして、その中で、様々な誘惑の中で生きていく中で、三つ目のように、この世の誘惑によって神様から大きく離れていきました。そのあとは、この世の誘惑から、どんなに神様の御言葉を聞いても受け入れない、神様の御言葉を奪い取られていく、一番目の道端のような心となっていきました。そして、今の状態を考えますと、神様に献身し牧師として働いている者です。神様の希望の御言葉を受けて、何度も喜んでいます。ただ、だから自分はいつも四番目の「良い土地」「み言葉を聞いて実を結ぶ」そのような心となっているかといえば、そうでもないのです。どちらかといえば、今も、御言葉を受けて喜びながらも、その後に今の社会の現実を見て、すぐに心が重くなってしまうことが多く、二番目のように石だらけのような心にある。そしてもっと正確に言えば、一つ目、二つ目、三つ目の、道端、石だらけの所、そして茨の間をいったりきたりしていると言えると思うのです。皆さんはどうでしょうか。胸をはって自分は「良い土地」という心の状態でいますと言うことができるでしょうか。「わたしは100倍、60倍、30倍といった、神様から与えられた恵みをもっともっと多くの人たちに伝え、すばらしいほどの実を実らせることができました」と言うことができるでしょうか。

 

 そのような私たちの揺れ動く心の状態なのですが。今日の箇所では、10-17という、「なんでこんなところに挟んであるのだろう」とも思う箇所があります。しかし、実は、この10節からの箇所によって、「良い土地」となるための、ヒントがあるのです。ここでイエス様はこのように言われました。【13:11あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。】(11-13)

 ここでは「あなたがた」と「あの人たち」、そして「持っている人」と「持っていない人」と明らかに二つの人たちに分けられています。このような二つに分けられた立場があるということ、神様に「救い出されている者」、そして、「そうでない者」という思想が、聖書にはあります。特に旧約聖書においては、選び出されたイスラエルの民と、その他の異邦人という考え方があるのです。そのような思想を持って、今日の箇所にを読み取り、結果だけを見て、分けるならば、「良い土地」で100倍、60倍、30倍といった結果を残した者だけが「選び出された者」「救われている」と、読み取ってしまうかもしれません。 

 

 この箇所を読み取る時に、まず今日の最初に言いましたように、大前提として、神様はすべての者に種を蒔かれた。すべての人間に愛を注ぎ、御言葉を与えてくださっているということがあるということを忘れないで読んでいきたいと思います。神様はすべての人間を愛されている。神様の愛から外れる人はいないのです。神様は、私たちすべての人間のために、この世界にイエス・キリストを送ってくださったのです。神様の蒔かれた御言葉、そして神様の蒔かれた、イエス・キリストは、「道端や、石だらけの所、そして茨の間」にも来てくださっているのです。その上で、「救い出されている者」、そして「救い出されない者」と二つに分けるならば、本来すべての人間が「救いだされない者」となるはずのものを、イエス・キリストご自身がなられた、それこそが、イエス・キリストの十字架の出来事だと言うことができるのです。イエス・キリストは十字架の上で死に、「救いだされない者」となられた。そしてまたイエス・キリストご自身が復活によって「救い出される者」となる道を開かれたと言うことができるのです。

 これは、神様がすべての者に種を蒔かれたという大前提につながります。本来、人間はすべての者が「救い出されない者」でありながらも、イエス・キリストの十字架と復活によって「救い出される者」となる道をいただいた。すべての者が神様の愛に包まれている中で生かされているということなのです。

 その上で、私たちが「良い土地」となること。それは、ただ自分が救われたと喜ぶことではなく、神様の愛を喜んで受け取り、神様の愛を表す者とされるということなのです。そして、それは、私たちが、自分でどうこうするのではなく、「種であるイエス・キリストを蒔かれた方が、私たちを耕してくださること」、このことを「信じて」「受け入れていく」ことによるのです 神様はすべての者に、その愛と恵みを送ってくださっているのです。

 

4: 耳のある者は聞きなさい

 最後にイエス様の言葉【13:9 耳のある者は聞きなさい。】という言葉から学んでいきたいと思います。イエス様は【13:9 耳のある者は聞きなさい。】と教え、それは【御言葉を聞いて悟る人】(マタイ13:23)だと教えます。「聞く」ことは「行動」を伴います。つまり、神様の御言葉を聞くことは神様に従うことであり、神様に従うことは、神様の御言葉を聞くことでもあるのです。「聞くこと」は最大の奉仕だとも言われます。自分の思うことを言いたいだけ言い、自分がしたいことをして、自分の願いだけを伝えて、生きていくこと、自分の思いから外れるものは受けいれない。そのような生き方は、自己中心、自分中心の生き方でしかないのです。

 私たち人間が生き方を変えるためには「聞くこと」が必要です。神様の声を聞き、そして、隣人の声を聞くこと。そしてまた、自分の思いを、きちんと聞いていくことも大切です。そのように「聞き」、その上で、「行動していく」ことが、神様の招きに応えて生きていくこと、「良い土地」として生きること、神様からの愛と恵みを受けた生き方がはじまるのです。私たちが「良い土地」となること、それは神様の御言葉を聞き、イエス・キリストという種をいただき、神様に耕されていただくことによるのです。

 もともと、「良い地」の人はいないのです。また神の御言葉、イエス・キリストという種をなくして実りを得ることもできません。神様は、そのようなわたしたちに、イエス・キリストを与え、道端、石だらけの所、そして茨の間という心の状態から、「良い地」となる道を開かれたのです。私たちは、今、キリストという種を心に頂きましょう。そして神様に心を耕していただきましょう。そしてこの神様に自分の中心に来ていただき、神様に従い、愛を表す者として生きていきたいと思います。(笠井元)