1: 神様に創造された世界
聖書は最初に、この世界は神様が創造されたことを教えます。そして、神様は創造されたこの世界のすべてを見て「極めて良かった」とされたのです。この世界はイエス様が良い種を蒔いておられる世界です。
しかし現実には喜びだけではなく、痛みと苦しみがあるのです。どうして神様が「極めて良い」とされた世界に、悪い事が起こるのでしょうか。どうして神様に愛されているはずの人間が、苦しい思いをさせられるのでしょうか。この世界は「良い麦」の中に「毒麦」が蒔かれている、そのような世界です。
2: 人を排除する道
主人が「敵の仕業だ」と言った時、僕たちはすぐに「では、行って抜き集めておきましょうか」と言いました。僕たちは、敵が来て、実らせた毒麦などさっさと抜いてしまおうと思ったのでしょう。しかし主人は「待ちなさい」と言われました。主人が大切にされたことは、毒麦を抜くことではなく、良い麦を抜いてしまわないことでした。迷惑なものは排除する道ではなく、共に生きる道です。これが神様の選ばれた道です。
ここでは「敵の仕業」として毒麦が蒔かれたとしています。「敵」とはだれのことでしょうか。本当の「敵」は「悪魔」であり、それは、自分とは違う価値観の人を「排除」させる「誘惑」です。
3: 神の忍耐
主人は「両方とも育つままにしておきなさい」(30)と言われました。今「毒麦」だとしても、明日には「良い麦」に変えられるかもしれない。神様はその成長を期待して、「刈り入れの時まで待ちなさい」と言われたと思わされるのです。しかも、ただ待っておられるだけではなく、この世界にイエス・キリストを送ってくださったのです。神様は「毒麦」が「良い麦」へと変わるために、自らの命をかけて待つことを決心されたのです。神様は、毒麦を取り除き、排除されて終わらせはしなかった。その麦がどのように育つのか、自らの命と愛を注ぎ、忍耐の上に待たれているのです。
4: 神の愛から離れない
神様は人が変わることを忍耐して待たれています。同時に、私たち人間にも「待つこと」を求められています。神様は「刈り入れの時まで待ちなさい」と言われているのです。私たちは、この神様の愛の完成の出来事を信じていきましょう。わたしたちが「待つ」ということは、神様が愛してくださっているということを信じることから離れないことです。私たちは、多くの困難の中にあっても、神様の愛はなくならないことを信じて、そして、愛の溢れる時がくることを待ち望んでいきたいと思います。
(笠井元)