1: ステファノの殉教
人々はステファノの演説を聞き、「激しく怒り」「歯ぎしり」したのでした。「歯ぎしり」は「悔しい」気持ちを表す言葉です。人々がステファノを殺した最大の理由は、56節のステファノの言葉【「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」】です。これはイエスを神の子とする言葉で、ユダヤの民にとっては神様を冒瀆する言葉であったのです。レビ記24:14では、神様を冒瀆した者は石で打ち殺すように言われています。人々の【大声で叫びながら耳を手でふさぎ】という行為は、神様を冒瀆する言葉を聞くことのないように、自分たちで大きな声を発し、耳をふさいでいるのです。
ステファノは、イエスを神の子と告白したことによって、神を冒瀆した者として殺されたのでした。自分がどのような信仰を持っているのか、何のために生きているのか。生きる意味、死ぬ意味を考えさせられます。
2: ルカの編集
7:58、8:1、8:3においてサウロが登場します。ただ、もともと、サウロのちのパウロはここにはいなかったと考えられています。これはルカの編集によるもので、キリスト教最初の殉教者ステファノの物語にパウロを登場させることで、迫害者パウロの迫害の印象を大きくし、そこからの回心というより一層劇的な物語にするために、パウロの名前を挿入したと考えられています。
3: キリストを映し出す姿
59-60のステファノの言葉は、十字架上のイエス様の言葉を想起させる言葉となっています。【「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」】(59)は【「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」】(ルカ23:46)という言葉を思い出させます。一つ違う点は、「父よ」という言葉が「主イエスよ」となっています。原始教会の初期には「父なる神」ではなく「主イエス」に祈っていたと考えられています。【「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」】(60)は、【「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」】(ルカ23:34)という言葉を思い起こさせます。この二つの言葉は、ステファノから十字架のイエス・キリストを映し出しています。
4: 散らされた者
人々は、迫害によって、散らされていきました。しかし、この後8:4に【散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた】とあるように、人々は福音を告げ知らせながら巡り歩いたのでした。これは使徒言行録1:7-8のイエス様の言葉の成就の出来事となったのです。【1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」】
イエス様の言葉は、迫害によって、人々が逃げ出し散らされた場所において、福音を伝えていく中で成就されていくのです。(笠井元)