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2019.9.22 「希望の種蒔き」(全文) マルコによる福音書4:1-9

 主イエスは分かりやすい譬を用いて神の国について教えて下さいました。私たちには神の支配は直接目に見えませんが、譬話を通して、日常の生活の実感の中で神の国の確かさを味わうことができます。今朝はマルコ福音書4章1節~9節を読んでいます。14節以下にはこの譬の解説が書かれていますが、本来いちいち解説しなければならない譬は余りうまい譬とは言えないでしょう。14節以下の譬の解説部分は、教会の礼拝に集っている人たちにクリスチャンが多くなって、クリスチャンがどのような心構えでこの譬を聴くかということに関心が移っています。それはそれで深く、意味あることではありますが、今朝はイエス様の譬のもともとの意味を大切にして9節で聖書箇所を切っています。

 この譬は、極めて単純で、力と喜びに満ちたものです。種には命が宿っていているので豊かな収穫を信じて農夫のように種を蒔こう、神様ご自身は農夫のように大らかに種を蒔き続けておられる、その励ましに応えて私たちも種を蒔こうと呼びかけています。

 主イエスの教えを聞こうとして大勢の人たちが集まってきました。私たちも同じ思いで教会に集まっています。余り多くの人々が集まってきて収拾がつかなくなり、イエス様は船に乗って、少し離れ、そこから水辺に集まった群衆にお話をされたのでした。注目する第一声は「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」というものでした。ガリラヤ湖の湖畔にはすぐそこに傾斜のある畑が迫っており、イエス様には、そこで種蒔く農夫が見えていたのかも知れません。群衆はイエス様を見ていましたが、イエス様からは群衆の背後に農夫が種を蒔くのが見えていたのかも知れません。神の国、神様の支配は、種蒔く農夫に似ているというのです。

 

1.二種類の種蒔き

 小学生の頃でしょうか、あるいは、中学生の頃でしたでしょうか、農業には2つのやり方があると教わりました。一つが、ちょっと荒っぽい「粗放農業」と呼ばれるもので、もう一つはイネの栽培のように、きめ細かい「集約農業」という2つの農業の違いについてです。粗放的農業というのは、北海道のような広い土地で行われていて、田んぼでお米を作るような集約的農業とは違うというのです。集約的農業は、手間隙をかけて単位当たりの土地から出来るだけ沢山の収穫を得る農業です。種籾を蒔いてまず苗床を作り、注意深くそれを育て、それから田植えをして、肥料をやり、農薬をまき、草取りをし、それは、それは手間隙をかけるわけです。水の管理も重要です。幼稚園の園庭には今年もイネが稔りました。これに対して粗放的農業は大らかで、バラバラ種を蒔き、それほどは手間をかけません。ミレーという画家の種蒔く農夫の絵をご存知の方は多いと思います。岩波書店のマークになっている絵です。円盤投げの選手のように少し腰を落とし、右手を後ろに振っています。あの絵のように、腰に下げた袋から種を掴んで、バラバラ蒔くのだそうです。

 

2.イスラエルの農業

 では、イスラエルでは、どのような農業がおこなわれていたのでしょうか。小麦や大麦を育てていたようです。イスラエルでは日本のように豊かな雨が降りません。最近ではちょっと異常に降りすぎですね。イスラエル地方は雨季と乾季がはっきりとしていて年3回雨が降ると言われています。秋の10月から11月下旬にかけて「前の雨」と呼ばれる雨が少し降り、土を柔らかくしてくれるそうです。そのときに素早く畑を耕すわけですが、実は、雨が降る前から辺りに種を蒔いておき、雨が降ったら、「それ」というので、土を耕しながら種を土の中に種を鋤きこむわけです。その後、冬の雨が大量に降り、最後に、春の雨が3月、4月に降って穀物を稔らせるそうです。そんな具合でしたから、丁寧に畝を作り、一つずつ種を蒔くのではないのです。ですから、ある種は道端まで飛んでいきます。ある種は石灰岩の薄地に落ち、ある種は畑と道の境のいばらの垣根に落ちてしまいます。しかし、ある種はやがて耕される畑に落ちて、やがて豊かな実を結ぶというのです。ヨアキム・エレミアスという有名なドイツ人の神学者がそんな風に説明しています。彼は1968年までドイツのゲッチンゲン大学の新約聖書学の正教授でした。彼を尋ねたのが丁度、夏休みでしたので、留守でした。部屋の扉の写真だけを撮ってきました。しかし、エレミアスのイスラエルの農業の仕方については日本の高名な新約学者の田川健三は「講釈師、見てきたような嘘をつく」と言って揶揄しています。どちらの学者、どちらの講釈師が嘘をついているのかは私には分かりません。しかし、エレミアスの説明によって、なぜ、種が道端に落ちたり、薄い石灰岩の土におちたり、茨の中に落ちるのだろうかという疑問がすっきりします。そこで、今朝はエレミアスの説明に沿って話を進めたいと思います。イスラエルの農民はなんと大らかで、忍耐強いのでしょうか。私たちは集約的農業に慣れているので、種を蒔いたら必ず、そして出来るだけ多くの実を収穫したいと思います。しかし、イスラエルの農民は私たちより大らかなのです。そもそも農民は忍耐強いです。川が氾濫して、あるいは大水で水がはけずに、農地が水没したり、果物の木が被災して、自分の努力が全部だめになることもあるのですから。

 

3.種の行方と結果

 それでは、種の行方と結果に注目してみましょう。ある種が道端に落ちると鳥がきて食べてしまう。ああもったいない。がっかりします。ある種は表面にちょっと土がありすぐ下に石灰岩のある土地に落ちて、芽を出しはしますが、根が弱いのですぐ枯れてしまう。ああ損をした。落胆します。ある種は茨の中に落ちて、茨に栄養を奪われて伸び悩み、実をつけない。ああ骨折り損のくたびれ儲けだ。私たちは投げやりになります。こんな風に、私たちはすぐさま、効率が悪いとか、効果がないと言って苛立ったり、不平を言ったり、諦めたりするのです。そうじゃないですか?人を育てること、人を愛すること、仕事を責任をもってやろうとする人は、農夫に限らず、このような「がっかり」、「落胆」、「伸び悩み」に悩むのではないでしょうか。少しは農民の気持ちを理解できるのだと思います。

 

4.希望の種蒔き

 それでは、喜びと希望に目を向けてみましょう。イスラエルの農夫は、種には命が宿っており、種には実をならせる力があることを信じて、ひたすらに種を蒔きます。そして、決して肥沃ではないかもしれませんが、畑に落ちた種は実を結ばせる力があることを信じて汗を流すのです。ヘブライ語聖書の詩篇126篇5~6節には、こんな一節があります。「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出てゆく者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」。今年の教会の聖句です。主イエスは言われます。「ほかの種は良い土地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」(8節)。なんと力強く、忍耐強く、喜びと希望に溢れた言葉でしょうか。

 私たちは神様の期待に応えて、実を結ぶでしょうか?私たちは神様を失望させることばかりではないでしょうか。しかし、神様は、農夫がそうであるように、文句を言われずに、短期的な効率とかに左右されず、忍耐して種を蒔き続け、喜んで待ち続けられるのです。イエス様は大工をされていたようですが、「あの農夫を見よ」「あの農夫の大らかさと忍耐と希望に溢れた喜びを見よ」と言われるのです。あるいは、イエス様は弟子たち、そして群衆たちを励ますだけではなく、ご自身を励ます意味でも、このように譬えを語られたのかも知れません。

 

5.私たちの課題 忍耐と希望をもって種蒔く

 私たちの生活のことを考えてみましょう。種を蒔くということは、み言葉を語ることであり、祈ることであり、愛することであると言って良いでしょう。私たちは、み言葉を語る、伝道するとすぐに収穫を期待するのです。蒔いたすべての処から効率的に収穫を期待し、すぐ落胆し、不平を言い、やがてやめてしまう。私たちは祈ります。すぐに祈りの答えがなければ、自分自身を責めたり、他者を責めたり、すぐに落胆し、不平を言い、祈ることをやめてしまう。私たちは夫や妻や、子どもや、恋人たち、教会の友を愛そうとします。しかし、愛がすぐに理解され、受け止められ、感謝されることを求めます。そして、そうでないと、すぐに落胆し、不平を言い、愛することをやめてしまいます。なんと忍耐のないことでしょうか。ああ、何と信仰の薄い者たちでしょうか。結局は、それは、伝道でも、祈りでも、愛でもなくて、結局、自己中心的な思いであることが分かってしまいます。そして、悪いことに、自分自身を責めることにもなるのです。信仰がすぐには成長しない。愛がない。自分はだめな人間だ。結局、キリスト教信仰も自分を救うことはできないのではないかと。そして最後には神ご自身を責めることにもなるのです。こうして、主イエスは私たちの貧しさ、教会の小ささ、私たちが味わう挫折をご存知なのです。確かに、道端に落ちてだめになる種の存在を知っています。自分の撒いた種が全部実をならせるわけではない現実を知っているのです。確かに、主イエスは、土の薄い石地におちて途中で枯れてしまうような種の存在を知っています。自分の蒔いた種が全部実をならせるわけではない現実を知っているのです。農夫は、確かに、茨の中に落ちて、芽を出して期待を持たせはしても、結局実をならせない種がある現実を知っています。私たちの挫折や問題は確かに重たい現実かも知れません。主イエスはそれをご存知です。主イエスはあなたの苦労をご存知です。

 しかし、主イエスはそんな私に、そんな皆さんに言われるのです。「農夫を見よ」、「あの農夫のように忍耐強く喜びに溢れた神を見上げよ」と。そして言われます。「ほかの種は良い土地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。

 

6.種にはいのちの力が宿っている

 なぜ、私たちは、忍耐と希望をもって種を蒔くのでしょうか。主イエスは言われます。「聞く耳のある者は聞くがよい」(9節)。自分の無力さや他の人間の罪深さを見るのではないのです。神のみ言葉にはいのちの力が宿っているのです。そこに目を向けましょう。イザヤ55:9~11を読んでみましょう。「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果たす」。神のみ言葉には私たちを支え、変えていく力があることを信じましょう。

 私のささやかな経験からすると、私たちはしばしば他者が蒔き、苦労して育てたものを刈り取らせていただくことが多いのではないでしょうか。自分が蒔きもしないのに刈り取ることだけを求めるというのもおかしなことですが、他者が蒔いたものを刈り取らせてもらっていることに気が付かないのも問題でしょう。もし、私たちが、他者の蒔いたものを刈り取らせていただくことがあるとすれば、私たちが蒔いたものをすべて自分で刈り取らなくてもよいのではないでしょうか。私たちの蒔いた種がどこかで実を結んでいるのをイメージしてみたら嬉しいことですね。種、み言葉には、命の力が宿っており、神様は農夫のように蒔き続けるのです。そうであれば、すぐに見える結果を求めず、全部自分で刈り取ると意気込まず、他者の蒔いた努力を結果だけ頂くという感謝があり、私たちが蒔いたものがひょっとしたらどこかで芽を出し、実を結んでいることがあるかも知れないと希望して、坦々と、粘り強く歩むのです。神の支配を信じるとはそんな生き方ではないでしょうか。種蒔きを教会の事柄として福音伝道という視点で考えてきましたが、これは、私たちが生きる日常の愛の働きとも言い換え、拡大することもできるでしょう。

 

 今年度も半年が過ぎようとしています。今年の教会の標語は「福音の種を蒔き続けよう」です。この標語を心に刻み、収穫の秋、伝道の秋を迎えましょう。劉先生の特別伝道集会のメッセージの準備のためにもお祈りしましょう。(松見俊)