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2019.10.13 「共に主の前に出る」(全文) マルコによる福音書2:1-12

 病人が屋根から吊下ろされてきました。これは、なんとユーモラスで心温まる出来事なのでしょうか。ガリラヤ湖の岸辺カペナウムでの物語です。初めは、ほこりがチラチラ、それから、屋根を葺いて(ふいて)いた藁(わら)や土や木の枝がパラパラ落ちてきました。そう思ったら、病人が屋根から担架ごと吊下ろされてきたのです。東福岡教会では、クリスマスシーズンには天井からアドヴェントクランツを降りてきます。「どうだ」とちょっと自慢です。しかし、頑丈なヴォーリス設計事務所の建物ですが、屋根を壊して病人をつり降ろすことがたぶん、できないでしょう?!しかし、まあ、なんとこの聖書の物語は、愉快な物語なのでしょう。主イエスは、四人の友達に連れられ、吊り下げられたこの男を喜ばれたのです。たぶん、イエス様は、最初は、唖然とされ、そして、そのお顔は笑い顔に変わったことでしょう。「ここまでやるか!」主イエスは、一人の中風の人に引きずられて、可笑しな名案を編み出して何とかしてイエス様のみ前に到達したこの四人の友人たちの祈りと愛と信仰そして知恵というか工夫を心から喜ばれたのです。この病気の友人がいなければ、あるいは、この四人はイエス様に出会うことはなかったかも知れません。この物語は、21世紀の社会のあり方、キリスト教会のあり方、そして、東福岡教会のあり方を考える良い想像力を与えてくれる物語ではないでしょうか。なんとかして、友と一緒に主イエス様のみ前に出るのです。

 

信仰による突破力と主イエスの包容力

 入口まで人が一杯でイエス様の所に到達できない。入口まで人が一杯である。教会がこれほど賑わうとよいのですが・・・。一度でも良いですからこんなことを経験したいものです。しかし、角度を変えて考えてみれば、これこそが、私たちがしばしば直面する現実ではないでしょうか。主イエス様のところに届かない、辿りつけないのです。新共同訳の4節では「阻まれて」と言われています。「阻まれた!」。助けを必要としている人がいるのに、自分のことで忙しくて時間がない。叫んでいる人がいるのに、主イエス様に届かせることができない。いや私自身がイエス様を必要としているのに、主イエス様の所に届かない。そこで、私たちは、悔しがったり、地団駄踏んで、そして、すぐさま諦めてしまいます。しかし、この男たちは、さっさと諦めるというようなことはしなかったのです。「友人が病気であること。彼にはイエス様が是非とも必要であること」。そこに病んでいる人がいる、そして、その人を愛するということ、主イエス様に信頼することは、人に祈りと知恵と工夫を生み出させるものなのです。このような他者との関わりの必要から促された祈りは、私たちの目の前の障壁を突破する知恵と工夫を生み出すのです。こうして障碍、その現実は突破されます。この家の持ち主や、家の中にいた人々は不平を言ったかもしれない。後で修理代を請求されたかも知れない。聖書は何も語っていませんが、常識的には、そんな反応だったかも知れません。しかし、主イエスはこの5人を喜ばれたのです。そして、聖書は、「彼らの信仰」と言っているのです。主イエスの包容力、私たちの想いを受け留めて下さる主イエスは障害を突破する信仰を与えてくださるのです。

 

み言葉に聴く

 「幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた」(1~2節)。主イエスは「御言を語っておられた」。一回限りではない、継続形の動詞です。そして、ここで「御言」は単数形です。イエス様はあれやこれやの言葉を具体的にお語りになっていたのでしょう。しかし、ここでは単数形 the Wordです。私たちは今日、実に「多くの人間の言葉・情報が溢れている時代」に生きています。余りに情報が多くて、何を選んだらよいやら、何を信じてよいやら、眩暈がするくらいです。そして、単に政治家たちだけではなく、多くの場面で、ことばとその内実がかけ離れている時代に生きています。「多くの情報」が発信されてはいますが、実は本当は「ことばの不在」の世の中なのかも知れません。プログに書き込まれた言葉やいじめやヘイトクライムが人を狂気にさえ追い込んでいます。ことばが不在の世の中において、実は饒舌で虚ろな言葉が人を死に追いやるのです。教会においては牧師の存在や信徒たちの存在も大きいです。しかし、大切なものは教会に与えられている「御言」です。「御言」とは、はかなく、弱い人間の言葉を下から支える神の言です。教会はこの時代の中でこの神の言を聞きとり、この神の言を語らねばならないし、語ることができるのです。そしてその「言」は、私たちに、信仰と愛の行為を生み出すのです。教会はこの言を聞き、この言を語るところに存在します。「主イエスは御言を彼等に語っておられた」。

 

 罪の赦しと病気の癒し          

 それではさらに踏み込んでこの物語の内容を考えてみましょう。私たちの注目を5節以下に移したいと思います。「中風」を病んだ男性が吊り下げられてきました。「中風」とは私の幼少時代は、「中気」と呼ばれていました。脳溢血、脳梗塞、クモ膜下出血などの後遺症で、半身の運動麻痺や言語障害の残る病気です。私の祖父が中風でした。貧しい学者というか教師で、大家族でもあり、ストレスがあったのでしょう。かなりのお酒飲みだったようです。駅から大八車に乗せられて帰宅したことがあると聞いています。障害が残っていたので、トイレに行けず、あるいは、間に合わず、縁側から小便をしているのを記憶しています。物心ついた時から寝ていた祖父しか記憶がありませんが、今から考えるともう少し優しくしてあげれば良かったと後悔しています。私が3歳~4歳くらいの頃です。

 主イエスは、中風の者に向かって「子よ、あなたの罪はゆるされる」と宣言されます。主イエスの言葉は人を癒し、罪をゆるす力を持っています。現在形と完了形の2つのテキストが伝えられています。イエス様のこの宣言と共に、いま、罪が赦されたことが強調されるか、もう罪は赦されてしまっているのだ、神様とはそういうお方なのだというようなことが強調されています。いずれにせよ、この男に、「子よ」と呼びかけ、今朝、主イエスは宣言されます。「ここに集っている人たちよ、あなたの律法、道徳的違反行為としての諸々の罪」はゆるされた」。

 しかし、これは、何という躓きに満ちた言葉でしょう。何か肩すかしを食らったような感じです。この男と友人たちが求めていたこと、そして今日、人が求めていることは、具体的に病が癒されることであり、目の前の問題が解決することではないでしょうか! それなのに、「あなたの罪はゆるされた」とは! そんな宣言は言葉の遊びではないのでしょうか。大体、今日、人は「罪」とか「救い」とか「赦し」など、目に見えないことについては興味がないのです。そして、そんな口先の言葉は実に「容易い」ものでしょう。難しいこと、なかなか起こらないこと、それは病気の癒しなのです。

 しかし、別のもう一つの見方もできるでしょう。キリスト教信仰は単なる「癒し」以上のもの、罪の赦しこそ重要であると。最近、キリスト教書店に行きますと「癒し」や「カウンセリング」の本ばかりで、「悔い改め」を迫る「伝道」という本が少ないのです。本当の「癒し」とは、人間としての自分そのものは変わらずに、問題がある部分だけに「伴創膏」を貼って、応急措置をすることではないはずです。「病気」のもっと深い所にある罪の問題、人と人、神と人との「関係の破れ」の回復こそ大切なのではないでしょうか。目に見える問題は実は私たちの心の奥底の問題の表れなのです。

 むろん、人を「罪」という枠組みでしか見ない問題もあるでしょう。ここで罪とは複数形で律法違反を、あるいは当時病気の原因とされていた違反行為を意味しています。当時の宗教的事情、つまり、この男が「罪人」とレッテルを貼られ、蔑まれ、苦しんできたからこそ、主イエスはあえてこのような「罪の赦し」という枠組みでこの男に向かって語られたとも言えるでしょう。

 ですから、今日の教会の課題として言えることは、「内面的な赦し」と「病気の癒し」を切り離さないようにすることでしょう。「病気の癒し」とは「神との関係における内面的な解放」の目に見える「しるし」です。それはあくまで「しるし」ですから起こらないことも多いのです。しかし、神との関係は決して切れていないという事実は確実です。そして、ここで言われている「罪の赦し」とは「病気の癒し」の「目には見えない深み」を意味しているのです。この深みに届かないなら、病気は癒されても人間自身は癒されることはないのです。教会は今日、言い争いやつぶやきではなく、人間を弱く、いとおしいものとして全体的に受け止め、神との関係の回復の問題と病の克服の問題を切り離さないようにしなくてはなりません。

 

 十字架を覚悟される主イエス

 しかし、すぐさま、声が上がります。いや、声を上げずに、心の中でつぶやくのです。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが罪を赦すことができるだろうか」(7節)。まあ、なんという大正解でしょうか。教会にはこのような正しい答えをする人が多いのではないでしょうか。「神おひとりのほかに、いたいだれが罪を赦すことができるだろうか」。確かに正しい言葉です。しかし、律法学者たちはここに連れて来られた男の苦しみを見てはいません。律法学者たちはそこにおられる主イエスを見ていません。彼らが見ているのは自分の信念の正しさ、自分たちの生活の枠組みの正しさだけなのです。しかし、正しい、形式的な信念からは何も起こってこないのです。彼等は、主イエスにおいて現われた神は、この男に愛といのちを分かち合おうとされていることを知らないのです。「子よ、あなたの罪はゆるされる」と言われたとき、イエス様はすでに神冒涜者の疑い、人を病人、罪人と決めつける宗教的、社会的構造を打ち壊す者として、十字架の死に追いやられる覚悟をされていることを律法学者は知らないのです。私たちの存在の深みからのうめきをご自身に受け留め、その死に至るまで私たちを愛し、父なる神に徹底的に栄光を帰して、僕としての道に生きたもう主イエスがここにおられることを見てはいないのです。イエス様は言われます。「あなたの罪は赦される、あるいは赦された」。私があなたを背負うから。

 

共に主イエスのみ前に

 最後に、今日、聞きとるべきこと、この物語から受け取る教会の姿に目を向けてみましょう。主イエスの前で共に生きるという課題です。日本社会は、大量生産、大量消費、大量廃棄の経済成長の時代から「成熟」が問われる社会となり、超高齢社会を迎えています。人は一人では生きられないことを自覚させられる時代です。しかし、共に生きることも鬱陶しいのです。一人であること、一人では生きられないこと、しかし、違いを許せない。いろいろな事件が起こっています。このような現実に直面して、この物語は豊かなイメージ、私たちにチャレンジを与えています。この病気の友人がいなければ、この四人はイエス様に出会うことはなかったかも知れないのです。この四人はこの中風の者に促されて主イエスと出会っているのです。教会が教会として生き生きとするかどうかは、主イエスを必要としている他者と出会えるかにかかっているのではないでしょうか。四人の人たちが中風の男との出会いを通してイエス様に出会ったように、主イエスを必要としている他者を発見することが大切な課題であると思います。そして、主イエス様を必要とし、助けてくれて、一緒に生きてくれる他者を必要としているのは、元気であると思い違いをしている、他ならぬ私自身であり、皆さん自身であるのではないでしょうか。四人の人が、病気の友人を担架に乗せて共に主イエス様に出会う、これが東福岡教会の今後のイメージであれば良いと祈ります。(松見俊)