病人が屋根から吊下ろされてきました。これは、なんとユーモラスで心温まる出来事なのでしょうか。ガリラヤ湖畔カペナウムでの物語です。主イエスは、四人の友達に連れられ、吊り下げられたこの男を喜ばれたのです。この病気の友人がいなければ、この四人はイエス様に出会うことはなかったかも知れません。この物語は、21世紀の社会のあり方、キリスト教会のあり方、そして、東福岡教会のあり方を考える良い想像力を与えてくれます。なんとかして、友と一緒に主イエス様のみ前に出るのです。
信仰による突破力と主イエスの包容力
人が一杯でイエス様の所に到達できない。4節では「阻まれて」と言われています。助けを必要としている人がいるのに、主イエス様に届かせることができない。しかし、そこに病んでいる人がいる、そして、その人を愛するということ、主イエス様に信頼することは、人に祈りと知恵と工夫を生み出させるものなのです。主イエスはこの五人を喜ばれたのです。
み言葉に聴く
そこで、イエスは「御言」を語っておられた」(1~2節)。
罪の赦しと病気の癒し
今日の教会の課題は、「内面的な赦し」と「病気の癒し」を切り離さないようにすることです。「病気の癒し」とは「神との関係における内面的な解放」の目に見える「しるし」です。「罪の赦し」とは「病気の癒し」の「目には見えない深み」です。
十字架を覚悟される主イエス
このような罪の赦しと病気の癒しは、イエス様を十字架の道へと追い込んでいきます。人を病人、罪人と決めつける宗教的、社会的構造を打ち壊す者として、主は、十字架への道を覚悟をされてます。
共に主イエスのみ前に
日本社会は、大量生産、大量消費、大量廃棄の経済成長の時代から人が共に助け合って生きる「成熟」が問われる社会、超高齢社会を迎えています。人は一人では生きられないことを自覚させられる時代です。しかし、共に生きることも鬱陶しいのです。そのようなジレンマを抱えている私たちは、この物語は大きな示唆を与えてくれます。四人の人たちが中風の男との出会いを通してイエス様に出会ったように、主イエスを必要としている他者を発見することが大切な課題です。そして、主イエス様を必要とし、助けてくれて、一緒に生きてくれる他者を必要としているのは、元気であると思い違いをしている、他ならぬ私自身であり、皆さん自身であるのではないでしょうか。これが東福岡教会の今後のイメージであれば良いと祈ります。(松見 俊)