1: 驚きから躓きへ
今日の箇所でイエス様は故郷のナザレに帰られました。故郷ナザレの人々は、イエス様の言葉と業に驚きました。しかし驚きから喜びと信仰に向かうのではなく、むしろ躓き、不信仰へと向かっていったのでした。この躓きの原因は、イエス様の生い立ちを知っていたこと、家族を知っていたことです。
ナザレの人たちの心をふさいでいたもう一つの思いとして、ナザレが小さな村であり、「こんな小さな村から救い主が出るわけがない」という思いがあったのではないでしょうか。自分が愛されていることを知ることがなくては、どれほど目の前で偉大な業がなされても、それはその人の心に届かないのです。
2: 挫折
ナザレの人々はイエス様の福音の言葉を受け入れることができませんでした。イエス様の福音の業が、この世において受け入れられなかったのです。福音伝道の働きは挫折の連続です。このイエス様の姿は、伝道者にとっては慰めともなります。福音伝道は、どれほど素敵な言葉を投げかけても、自分が間違っていないとしても、だからといって成功するといったものではないのです。それでも実りは神様が成し遂げてくださると信じて、種を蒔き続けていきたいと思います。
3: 何を見て、何を聞いたら信じるのか
ナザレの人々は、イエス様の言葉と業を、神様の業と信じることもできたはずです。しかし、ナザレの人々はイエスをキリスト救い主としては受け入れなかったのです。ナザレの人々は一体何を見たら信じたのでしょうか。私たちは、何を見て、何を聞いたら、神様を信じるのでしょうか。イエス・キリストの十字架と復活を教える御言葉、聖書が、私たちの目の前にあるのです。
4: 心に合わせて、心を超えて
イエス様は奇跡を「あまりなさらなかった」のでした。この言葉はそこにいる人々の心に合わせて、必要な恵みを表されたと読み取ることができるのです。イエス・キリストは、強引に、私たちの心を開かれるのではなく、私たちが心を開いて出て行くことを待ってくださっているのです。同時に、私たちの思いを超えて愛を注いでくださっているのです。私たちは躓くことがあります。しかし、そのような時にこそ、私たちを超えて働いてくださっている神様の御業を信じていきましょう。(笠井元)