1: 主の天使の導き 寂しい道へ
主の天使はフィリポに【「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」】(26)と命令しました。「南」は「正午ごろ」「真昼ごろ」とも訳されます。「真昼頃」は暑さのために旅行が困難で、またこの道は「寂しい道」でした。つまり、主の天使は「なぜ」と思うような道に「行きなさい」と言ったのです。フィリポは「すぐ出かけていったのです。」(27)
聖霊は私たちの思いを超えて働かれます。聖霊の導きは、フィリポが導かれたように「なぜ」と思う時があります。しかし、自分では「間違えた」「苦しい」、逆に「幸せだ」と思っていても、そのすべてが神様につながる道として、聖霊が導いてくださっているのです。
2: エチオピアの高官
フィリポがガザに向けて歩き出すとエチオピア人の宦官に出会います。ここでのエチオピアとは、現在のスーダン北部でエジプトの近くになります。「カンダケ」とは、エジプトでいうところの「ファラオ」という女王の称号を指したものです。
エチオピアの高官は、これまで宦官として去勢された人物とされてきました。それはユダヤから除外された者という意味です。ただ、現代ではこの男性は必ずしも去勢をしていたわけでもなければ、もしかしたらユダヤ人(ユダヤ教徒)であったとも考えられています。
エルサレム中心主義であるルカは、この後10章のペトロによるコルネリウスのバプテスマを異邦人の最初のバプテスマとしたのではないかと考えられています。フィリポによる福音はサマリア人へ、そして世界に広がり(エチオピア人)、ついに異邦人(コルネリウス)まで及ぶという流れであるということです。
3: エチオピアの高官が求めていたもの
エチオピアの高官は、救い主を求め、救い主へと手引きしてくれる人を求めていたのです。そしてエチオピアの高官は、求めていた救い主へと手引きする者フィリポを聖霊によっていただいたのでした。
4: ルカの救い主像
32節で引用されたのは、イザヤ53:7-8です。この8節の言葉【彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。】という言葉を、使徒言行録8:33では【彼の命は地上から取り去られるからだ。】として引用して、イエス・キリストの復活と高挙を表しているのです。
本来ならばイザヤ書53章は贖罪による救いについて預言された言葉ですが、ルカは明らかに贖罪の箇所ではなく、復活と高挙を救いの中心にもってきたのです。
5: 聖霊の導き
エチオピアの高官はフィリポによりバプテスマを受けます。8:37(新p.272)は、後の時代による挿入で、当時のバプテスマを受けるための問答形式の式文が反映している言葉とされています。
エチオピアの高官にとって必要なのは、もはや救いへの手引き者ではなく、喜び溢れた恵みをくださった聖霊による導きなのです。エチオピアの高官は、喜びにあふれて旅をつづけました。それは、聖霊の導きの中で生きていたことを表します。
今日の箇所はなによりも主の霊、聖霊による神様の導きを教えています。私たちも聖霊を求め、信頼して、委ねて歩んでいきましょう。