1: 律法違反
今日の箇所は、小見出しに「洗礼者ヨハネ、殺される」とありますように、バプテスマのヨハネが殺されていく場面となります。まず、その死に至った、あらすじを少し説明していきたいと思います。今日の箇所3、4節にこのようにあります。【14:3 実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。14:4 ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。】(マタイ14:3-4) ここに登場するヘロデとは、イエス様が生まれたときに、イエス様を殺そうとしたヘロデ大王の子ども、ヘロデ・アンティパスのこととなります。このヘロデ・アンティパスが、自分の兄弟ヘロデ・フィリポの妻、ヘロディアと結婚したことが、事の発端となります。本来、兄弟の妻と結婚することは、律法で禁じられていました。ヘロデ・アンティパスとヘロディアは、律法を破り、罪を犯して結婚をしたのでした。このことを、バプテスマのヨハネが、【「あの女と結婚することは律法で許されていない」】(14:4)と指摘したのです。そして、そのために牢に入れられたのでした。ヨハネは律法の前にあって、正しいことを言ったのです。しかし、このことによって捕えられたのです。
このことから考えられるのは、当時の律法に詳しい律法学者や、ファリサイ派の人々は、このヘロデとヘロディアのしていることが、律法において間違っていることだとは知りながらも、「あなたがたがしていることは間違っている」とは言わなかったということです。ヘロデは「領主」とされていますので、当時のこの地域の権力者でありました。人々は、この領主ヘロデに逆らう事はできなかったのです。
2: 何が正しい事か
バプテスマのヨハネは、この領主という権力者に対して、その罪を指摘することによって捕えられ、殺されていくことになるのです。バプテスマのヨハネという存在は、もともと荒野において【3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」】(マタイ3:2)と叫んだ者でした。バプテスマのヨハネは、イエス様の先駆けとして、ユダヤの人々に「悔い改めなさい」と教え、罪の告白によるバプテスマを行ったのです。そのようなバプテスマのヨハネですが、この今日の死においても、イエス様の十字架による死を映し出しているのです。このとき、ヘロデの本意がどのようなものであったのかは、なかなか簡単には読み取れないのです。今日の5節には【ヨハネを殺そうと思っていた】(5)とあります。ただ、同じことを記している記事、並行箇所であるマルコでは、【6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。】(マルコ6:19-20)とも、記されているのです。
ヘロデは、バプテスマのヨハネの教えを聞いて、当惑しながらも、喜んでいたのでした。実際、今日の箇所9節において【王は心を痛めた】(9)とあるように、心から喜んでバプテスマのヨハネを殺していったのではないことが感じられるのです。そのようなヘロデを誘惑したのが、ヘロディアです。ヘロディアは明らかにヨハネを殺そうと企んでいました。このヘロディアが娘を唆して、ヘロデに、バプテスマのヨハネを殺させるのです。
このことは、イエス様の十字架における死と、とても似ているところが多いのです。イエス様の十字架もまた、殺そうと思っていた人、その思いにそそのかされた人、そして実際に殺すことを命令した責任者とがいるのです。イエス様を殺そうとしていたのは、当時のユダヤの祭司長・律法学者たちでした。祭司長・律法学者たちは、イエス様を殺そうとして、群衆を唆すのです。群衆は、祭司長たちに唆されて、罪のないイエス・キリストを「十字架につけろ」と殺すように叫ぶのです。そして、この叫びを受けて、イエス様を殺す命令を下したのは、当時のローマ総督ピラトでした。聖書では、ピラトがイエス様を殺すことにためらっていたこと、自分には何のかかわりもないとしようとしたことが記されています。しかし、2000年たった、今も、ピラトの名前は、イエス・キリストを十字架につけた最終責任者として残っているのです。この時、バプテスマのヨハネを殺していったヘロデも、またイエス・キリストを殺していったピラトも、自分の本意ではなかったかもしれません。しかし、その周りの誘惑、圧力に負けてしまったのでした。
また、バプテスマのヨハネを殺してほしいと言ったヘロディアの娘も、イエス・キリストを殺してほしいと願った群衆も、自分たちがどんなことをしようとしているのか、どこまで理解していたのか、わかりません。ヘロディアの娘や群衆は、自分の思いを持って、主体的にバプテスマのヨハネや、イエス・キリストの死を求めていったのではなく、後ろにいる、ヘロディアや祭司長たちに唆され、操られて、死を求めていったのです。ヘロディアの娘も、群衆も、それがどれほど大きな間違いなのか、気づいていなかったと思うのです。
私たちもまた、社会の圧力に負けてしまう事、または自分では気が付かない間に、人に唆され、操られて、人を傷つけてしまうことがあり、後から自分の間違えに気が付くこともあると思うのです。 以前、お笑いタレントのビートたけし、北野武さんが「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言いましたが、どんなに悪い事でも、間違っていることでも、集団という圧力が、それを正しいものだとすれば、それが正しいものになっていく、それが正しいものだと思ってしまう、そのような心理が、私たちには働くということです。
これが、人が人を傷つけても、それが当然だという環境になれば、人は、人を傷つけることを悪いことだと思わなくなるのです。戦争をすること、差別をすること、いじめることもそうでしょう。世の中の倫理、正しいことは、集団という圧力によって変えられてしまうことがあるものなのです。私たちの社会は、多数決で物事を決めていきます。それは、社会が道を選ぶ一つの方法です。何かを決めていくためには、これも大切な方法のひとつでしょう。しかし、だからといって、多くの人が賛同するものが『絶対に正しい』、少ない意見はすべて『間違っている』ということではないのです。何かを決断するときに、人数が多いから、その選択が必ず正しいとしてしまうことは、とても危険なことだと思うのです。 本当に、正しい道を探していくためには、小さな声、小さな意見を拾って聞いていく必要性があるのです。
それは宗教も同じです。イエス様を十字架につけた、ユダヤの祭司長たちは「自分は正しい」と思っていた律法を批判するイエス様を排除したのでした。宗教は特に、「正しい道」「正しい生き方」を教えようとしています。つまり、そうでない人を「悪い人」として排除してしまう危険性がとても高いものなのです。これまでのキリスト教の歴史を見ても、そのように「自分たちは正しい」として、多くの人の考えを否定し、傷つけ、排除してきた歴史があるのです。私たちは、自分たちのしていることが、本当に正しい事なのか、いつも問い続けている必要があります。自分で自分は間違っていない、自分のしていることは正しいと、思いこむことは、神様の御心から足を踏み外してしまう。そのような危険性があるのです。
3: 十字架
今日の聖書では、バプテスマのヨハネが殺害されていきました。そして、この後、バプテスマのヨハネの死が映し出すように、イエス・キリストが十字架の上で殺されていきます。 バプテスマのヨハネの死、そしてイエス・キリストの十字架における死は、明らかに人間が、「自分は正しい」と思い込み、自分の間違えから離れることができずに起こった出来事でした。ヘロデ、ヘロディア、その娘、また祭司長・律法学者、ローマの総督ピラト、イエスの十字架を求めた群衆。この人々は確かに、間違った道を歩んでいたのです。しかし、この人間の間違えた道、間違えた行為の中において、神様は福音の出来事、イエス・キリストの十字架を起こされていったのです。つまり、私たち人間の罪の中にあって、神様は、その罪の行為をも通して、そこに救いの業を起こされていったのです。十字架は、まさに、私たちの罪の象徴でもあり、同時に、そこに与えられた救いの象徴でもあるのです。私たちは、生きている中で、間違えた道を歩んでしまうこと、踏み外してしまうことがあるでしょう。しかし、その失敗に絶望することはないのです。神様は、そのような人々の為に、人間の失敗、弱さ、罪のために、この世にきてくださったのです。私たちが、自分の罪に気付く時、それは、イエス・キリストの十字架に目を向けるための大切な時なのです。
4: 立ち帰ることが赦されている
神様は、イエス・キリストを通して、私たちが本当に神様の前に正しく生きる道を示してくださったのです。それは、ヘロデやヘロディア、祭司長やピラトにも与えられていた道です。しかし、ヘロデは、悩みながらも、バプテスマのヨハネを殺す道を選びました。それは「一度言ってしまったから・・・約束してしまったから・・・客の手前に・・・」と、自分のプライドや権威のために、自分の間違えから、立ち帰ることができなかったのです。そして、ヘロデは、この後、イエス・キリストを十字架へと付けていくことになります。ヘロデは、このバプテスマのヨハネの死から、神様に立ち帰ることなく、イエス・キリストを殺していったのでした。
私たちに与えられている道は、自分の間違えから「神様に立ち帰る道」が与えられているのです。どれほど大きな罪を犯したとしても、どれほど大きな間違えに進んでしまったとしても、私たちは、神様に立ち帰り、やり直すことが赦されているのです。私たちの最大の間違えは、そのやり直す道が失われてしまったと勘違いをすることです。人生に絶望することです。自分の命には、もはや価値がないと勘違いをしまう事。そして、もはや立ち帰ることができないから・・・として、間違っていると気が付きながらも、突き進むことです。私たちには、立ち帰ることが赦されているのです。
聖書のルカによる福音書15章には「放蕩息子」というイエス様の譬え話が記されています。2人の息子のうちの弟のほうが、父の財産をもらって、その財産で放蕩し、遊びつくすのです。しかし、その財産が尽きた時に、弟は、自分の間違えに気が付くのです。そして「もはや息子ではなく、雇人の一人でもいいから」と、父のもとに帰るのです。その弟が帰るとき、まだ遠く離れていたのに、父親はその弟を見つけて、走り寄ってきて抱きしめたのでした。父親はずっと弟が帰ってくることを待っていたのです。そして立ち帰ってきた弟を抱きしめ、愛したのでした。
ここでいう父親とは神様のことで、弟は私たち人間のことです。私たちは神様によって愛されています。それがどれほど、間違ってばかりの人生でも、私たちには、何度でも立ち帰ることが赦されているのです。これは、何でもして良いということではありません。何でもして良いのではなく、どれほど、正しく生きようと思っても、間違えて生きてしまう人間への、神様の慈しみの御言葉なのです。主イエス・キリストは、私たちの間違えた選び、失敗、罪の出来事を担われて、十字架において、その罪をすべて受け止められたのです。この十字架によって、私たちは生きる希望を与えられたのです。
私たちは、この十字架の前にあって、自分がどのように生きるべきか、問い続けていきたいと思うのです。私たちが生きるべき道は、このイエス・キリストによる神様の愛に従って生きることです。その道は様々でしょう。「あれをすればよい」「これが正しい」ということはないのです。さまざまな人生の選びの中で、その中心にイエス・キリストによる愛を置いて生きていくということです。そして、間違ったときは神様に立ち帰り、もう一度、神様から与えられている愛の心を持って歩みだして行きたいと思います。(笠井元)