1: イエスのもとに連れていく
今日の聖書では、まず【10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。】(13)とあります。子どもたちを連れてきた人々とは、子どもたちの「親」になると思いますが、人々はわが子をイエス様に触れていただくために、連れてきました。わが子をイエス様のもとへ、イエス様による祝福をいただくために連れてきたのです。ここには子どもの幸せを願う親の、一生懸命な姿を見ることができるのです。このとき、すでにイエス様のもとには多くの人々が、その話を聞くためにやってきていました。聖書では、大人の男の人だけで5000人もの人々が、イエス様のお話を聞いていたという記事があります。また別の箇所では、イエス様の周りに多くの人々がいて、お会いすることができないため、屋根を壊して上から病気の友人を降ろした人たちもいました。また、木に登ってイエス様がくるのを待っていた人もいました。多くの人々が、みんなイエス様に一目会おうと、少しでもいいから触れて頂こうと、祝福していただこうとして必死にきていたのです。それほど大変なところに、親たちはわが子を、イエス様に会い、触れて頂こうと願い、やってきたのです。つまり、それほどイエス様に出会うという事には意味があると考えたのでしょう。
イエス様に出会うということは、どのようなことなのでしょうか。イエス様に出会うこと。そこには、その人の人生を変える力があります。イエス様は、病に苦しんでいる人、罪人とされ孤独に生きている人、そのような弱い人のところにやってきました。マルコ2:17で、イエス様はこのように言われました。『2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」』イエス様は、弱い人、孤独な人、生きる意味を見失っている人に「あなたには生きている意味がある」こと「あなたは神様から愛されている」ということを教えられたのです。単純なようですが、わたしたち人間が、困難の中にあるときに、忘れてしまうことであり、本来一番大切で、必要なこと。それは「あなたは愛されている」ということです。
この時、親たちが子どもに求めているのは、子どもの幸せです。人々は、子どもが幸せになってほしいという願いのもと、イエス様に祝福をいただくことを求めてやってきたのです。「神様はあなたを愛してくださっている」「あなたは価値のある存在だ」「神様はあなたという存在を大切に思ってくださっている」「あなたは愛されている」という神様の祝福を、求めてやってきたのでした。
2: わたしのところに来させなさい
イエス様は言われました。【「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」】(10:14-15)
「子供たちをわたしのところに来させなさい」。この言葉は、別の翻訳では「子どもたちを解放しなさい」という言葉で訳されています。子どもを解放しなさい。それは、「子どもを一人の人間、一人の人格を持つ存在として認めなさい」ということ、もう少しはっきりいうと、「親やそのほか誰の所有物でもなく」、神様の前に独立した存在であるということです。この子どもの存在を解放することは、私たち自分自身も解放されることにつながるのです。
「こどもに幸せになってほしい」。この思いは、親としてとても大切な思いだと思います。そのうえで、この思いが「自分の力だけで子どもを幸せにしよう」、「自分の力だけで子どもを幸せにできる」となるときに、それは子どもにとっても、親にとっても息苦しくなってしまうことがあります。
私には、2人の息子がいます。わたしがこの教会に来たときは、小学1年生と、幼稚園年少さんだった二人も、今は、中学生と小学生になりました。ここまで成長ができたことを神様に、そして教会、その他多くの方々に、心から感謝したいと思います。これまでを振り返ると、本当に色々なことがあったと思います。私も、もちろん二人には幸せになってほしいと願っています。ただ、その思いが強くなりすぎて、2人に、自分の思いを押し付けてしまうことがありましたし、今でもあると思います。 「早く起きなさい」「宿題しなさい」「部屋を片付けなさい」「ごはんは残さず食べなさい」「歯を磨きなさい」「夜は早く寝なさい」「くつは踏まない」・・・と、小言ばかり言っているような気がします。親からすれば子どもにしてほしい当たり前のことを求めているつもりなのですが、それが子どもからすれば、実は、「お父さんは自分のことを見ていない」、と思っていることがあるのです。 以前、「なんで朝ごはんをきちんと全部食べない」「残してはいけない」と言い続けていた私に、子どもから「量が多いんだって」と、一言が返ってきました。私としては、朝ごはんはいっぱい食べて、大きくなって、勉強をいっぱいして、強くて、賢い人間になって欲しいという願いがありました。そのためにいっぱい朝ごはんを食べさせようとしていました。しかし、どうやらそれは親の押しつけで、子どもからすれば「こんなに食べられないよ」といったご飯の量で、多すぎたようです。私の思いは、どうやら自己満足なだけで、子どものことをきちんと見ていなかったようです。
「子どもに幸せになって欲しい」。そのために親としてはこんなことができる、こんなことをしなければ・・・という思いは、とても必要で大切なことだと思うのです。この思いがなくなってしまうことは問題です。ただ、「自分だけで、子どもを育てなければならない」、「その責任はすべて自分にある」と強く思いすぎると、子どもも自分も締め付けることになってしまうのです。
イエス様は、「子どもをわたしのもとに来させなさい。」と言われました。「すべての命を造り、命を守り、命を養ってくださる神様に、子どものことも、自分のことも、お任せして大丈夫です」と教えてくださっているのです。私たちは、本当のところは、自分では、自分の明日の命すら造りだすことができない者なのです。だれも明日、必ず生きていると、言い切ることはできないでしょう。命は、神様によって、与えられているものなのです。子どもの未来が心配な時は、まず命を造られて守られている方、神様にお願いすることが一番大切なことなのです。イエス様は、「肩の力を抜いて大丈夫」。「あなたは神様に愛されている」。同時に「あなたの子どもも神様に愛されている」。そして「すべての者が神様の祝福の内に生きている」と、教えて下さっているのです。
3: 子どものように神の国を受け入れる
続けて、イエス様は「子どものように神の国を受け入れなさい」と言われました。これはただ「子どものようになりなさい」ということではなく、「子どものように神の国を『受け入れなさい』」ということです。こどもとは・・・というと、「素直」で「純真」といわれることがあります。ただ、ここでの「子どものように」というのは、そのように「素直」で「純真」にだけなりなさいということではないのです。子どものもう一つの特徴として「弱い者」であるという特徴があります。子どもとは、とても弱い存在です。一人で生きていくことはできないし、誰かに助けられて生きています。「弱さ」は、助けを必要とします。そしてだからこそ、自分は一人ではないということを感じさせてもくれるのです。
聖書にはこのような言葉があります。【12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。】(Ⅱコリント12:9)
弱さの中にあるとき、私たちは誰かの助けを必要とすることを実感するでしょう。このことを私の大学時代の先生は「無力の力」という言葉で教えてくれました。「子どもは弱く、無力である。しかし、本当は、大人も、すべての人間が神様の前にあっては無力なのです。子どもの無力さは、人間が自分の無力さを認めて、神様から愛されて良いこと、となりの人から支えられ、助けられて良いことを教えています。自分の無力さを認めることができるのは、本当の意味での強さであり、力なのだ」と、教えて下さいました。ここでは、そのような子ども、弱い者のように、「神の国、つまり神様の愛を受け入れましょう」と教えているのです。大人は多くの責任を背負って生きています。その中で、どうしても「自分で生きていかなければならない」と考えてしまいます。そのような大人に、イエス様は、「あなたも完全な者ではないのです」「あなたも弱いところがある者です」「そしてその弱さを含めて、それが神様から与えられている『あなた』という存在なのです」、そして「神様はあなたを愛しています」と教えられているのです。
私たちは、この神様の愛を素直に受け入れる者となりたいと思うのです。私たちは、子どものように、自分の弱さを認め、その弱さの中にこそ、神様の愛が表されるということを信じて、神様に委ねていきたいと思います。(笠井元)