1: 回心後、すぐ伝道を始めたサウロ
サウロは回心した後、20節にあるように「すぐ」伝道を始めました。このことから2つのことを学びたいと思います。
1つ目に、キリスト者となることは、「イエスを主」と告白するために招かれているということです。私たちがキリスト者となるとは福音伝道の道を歩き出すことなのです。
2つ目に、サウロは「伝道」を始めたのです。確かに、すべての人が福音伝道のために召しだされたのですが、その道は様々です。パウロはそれぞれに違う賜物、為すべき働きがあることも教えています。(ローマ12:6-8、Ⅰコリント12:28-31)
私たちはそれぞれ何の賜物が与えられているか考えてみましょう。賜物とは、私たちが得意なこと、したいこと、好きなことではありません。神様の導きと招きのうちに、教会にあって与えられている働き、与えられている賜物を見つけみましょう。
2: 命を狙われるサウロ
23節からは、ユダヤ人がサウロを殺そうと計画を始め、その手から逃れたサウロの姿があります。サウロは「イエスは主、神の子」と告白していきました。イエスを神の子とすることは、ステファノが殺された理由と同じで、神を冒涜している言葉なのです。ユダヤの人々は、神を冒涜するサウロを殺そうとしたのでした。しかし、サウロは、迫害の中にあっても伝道をやめるのではなく、むしろ【ますます力を得て、イエスがメシアであることを論証した】(22)のです。
3: 教会における信仰
サウロは、迫害をされる中にあっても信仰を歩みました。サウロは神様からの強烈なメッセージが与えられ受け入れたのです。そのサウロがエルサレムにおいて弟子たちの仲間に加わろうとしたのです。ここから個人の信仰が、教会という信仰共同体としての信仰としてつなげられていくことの大切さを学ぶことができます。一人の神様と出会った個人的経験が、本当の信仰となっていくために、教会の大切な働きがあるのです。
信仰をもっても、それで一人で生きるならば、それは熱狂的で主観的な信仰でしかないのです。サウロは自分のいただいた、個人的、主観的な信仰の出来事を、教会の出来事としていくのです。
4: どのように生きていくのか
しかし、サウロの思いを使徒たちは簡単には受け入れられなかったのです。(9:26-28)サウロの信仰をバルナバが理解し、使徒たちと向き合う道を案内したのです。バルナバは、これまでサウロがしてきたことではなく、サウロが、【主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した】(27)のでした。
私たちも人間のこれまでの生き方に目を向けるよりも、その人が主に出会いどのように変えられていったのか。今、どのように生きていきたいと願っているのかを、見ていきたいと思います。そして、お互いの信仰を分かち合うこと、お互いの信仰を尊重することの大切さを学んでいきたいと思います。(笠井元)