1: 掟を守る人は掟によって生きる
今日の、箇所では、最初に【10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。】とあります。「掟を守ること」。それは、主の名を呼び求め、「神様による救いを求める」のではなく、「掟を守ること」によって、救いを得ることを求めて生きることを示しているのです。まず、今日の箇所を読む中で、間違えてはならないのは、「掟を守ること」、「律法を大切にすること」が、「悪いことである」と言っているのではないということです。イエス様は【「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)と言われました。「掟に生きること」、「律法を大切に生きること」は、神様の救いを覚えて生きていくために、神様が与えてくださった、大切な道しるべなのです。
律法について、少しお話しますと・・・最初に、神様の救いがあり、そして、その神様の救いを受けた者として、神様に従い生きていくために与えられたのが「律法」です。イスラエルの民は、エジプトの地において、奴隷という立場にありました。神様はそのイスラエルの呻き、嘆きを聞かれ、その苦しみの状態から救い出されたのです。イスラエルの奴隷の状態とは、ただエジプトという国に支配されていた姿を表すだけではありません。むしろそこから、人間の自己中心な思い、罪に支配されていたという姿を表してもいるのです。つまり、この神様によるイスラエルに対する奴隷からの救いというのは、私たち人間の、自己中心的な世界、罪の世界から、神様に信頼して生きる道に導かれたということでありました。
この救いを覚えて、神様に信頼して生きるために、神様はイスラエルの民に、十戒を与え、その十戒を中心に律法を与えられました。つまり律法とは、罪より救い出されたイスラエルの民が、神様に信頼して生きていくための道しるべ、生きる指針なのです。
十戒の最初には、このような言葉があります。【20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」】(出エジプト記20:2-3)神様は、「わたしがあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き、救い出した神である。」「だから、そのことを忘れずに、まず第一に、救いの神を神として、自分の中心に、神様の救いと教えをおいて生きていきなさい」と教えられているのです。これが神様の与えてくださった掟です。この掟を守ることは、主の救いを覚え、主に従い続ける大切なことなのです。
このことを踏まえた上で、今日のこの箇所では、「掟を守る人は掟によって生きる」(5)と言うのです。主の律法を頂いたイスラエルの民は、その救いを覚えて、律法のうちに生き続けることではなく、「掟を守ることによって救いを得る」という思いに生きるようになっていったのです。「掟を守る人でありたい」と思う中で、主の救いを覚えることを大切にするのではなく、「掟を守ること」「律法に従うこと」だけを中心にしてしまったのです。「掟を守る」ことによって救われるということは、とても不安定なことです。私たちはどれだけ神様の与える「掟」を守ることができるでしょうか。私たちは、その人生のほとんどは、神様から離れ、自分の思いのなかに生きているのではないでしょうか。救いの土台が、私たちの行為、私たちの生き方によるのであれば、だれが救いに与ることができるでしょうか。
イスラエルの民が「掟を守ること」「律法に従うこと」に救いを求めていたということは、イスラエルの民が特別に不信仰であったのではありません。むしろこれが人間の姿、人間の弱さです。私たち人間は、神様の救いを忘れて、自分の力で生きていこうと思ってしまう、とても弱い者であるということを教えているのです。
2: キリストによる救い
そのような、自分勝手な人間に、今日の8節の言葉では【「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」】(10:8)と教えているのです。ここで、救いの土台にあるのは、あなたの近くにおられるキリスト、わたしたちの口、私たちの心にきてくださっている、イエス・キリストにあるということを教えているのです。6節からはこのように教えます。【10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。 10:7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。】
これは、私たちが自分の行為によって、天に上る、つまり救いを得るのでもなく、私たちが自分の行為によって底なしの淵、つまり滅びにいたるということではないということを教えているのです。誰が天に上るのか。それはイエス・キリストであり、キリストの復活と高挙によるのです。また、誰が底なしの淵に下るのか。それもまたイエス・キリストであり、それはイエス・キリストの十字架によって成し遂げられたのです。イエス・キリストは、この十字架と復活という出来事を通して、死も、命も支配される方となられたのです。「救い」の道は、イエス・キリストの十字架と復活によって、すべての人間に開かれたのです。神様の愛の恵みは、すべての人間に注がれているのです。イエス・キリストは十字架と復活によって、陰府に下り、そして天に上られました。そのうえで、キリストは、私たちの近くにこられ、私たちの口、そして私たちの心に来てくださっているのです。ここに、救いが与えられたのです。キリストは、まさに、私たちの心に来てくださった。救いは、このイエス・キリストが来てくださったということを土台として与えられているのです。
3: 神から与えられた救いを土台に生きる
【10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。】信仰とは、イエス・キリストを信じて受け入れ、イエス・キリストを土台として生きていくということです。神様は、私たちに救いを与えるために、イエス・キリストを、この世に送って下さいました。このことを心で信じること、それが主を救いの土台、心の中心にいただくということです。そしてその救いを口で公に言い表すということは、その救いを自分の救いとして受け入れ、生きていくということです。これはイスラエルの民が、エジプトからの救いを与えられ、その救いに生きるために掟を与えられたのと同じ形として見ることができると思うのです。「救い」があり、その救いを覚え、喜んで生きるための「律法」があるのです。イエスをキリスト「救い主」として、口で公に言い表して生きること。それは、イエス・キリストを救いの土台として受け入れ、生きることです。どのように生きるのか。それはどのような時も、苦しい時も、嘆きの中でも、喜びの時も、「イエスを自らの救い主」として生きていく。口で言い表すとは、生きていく方向、生き方を告白し、実際に行動していくことなのです。
そして、この主イエス・キリストを自らの主として受け入れ、信じて生きていく、その道には、決して「失望することはない」のです。「失望」とは、思っていた結果が得られず、期待外れであったということです。私たちがイエスを主、救い主と告白して信じていくとき、「失望することはない」のです。つまり、イエス・キリストに、人生の中心に来ていただく時、私たちの人生は、期待外れな結果に生きることはないのです。
現在、夜の祈祷会の私の担当の時には、使徒言行録を読み進めています。その中で、先日の水曜日では、9章にある、使徒ペトロによる癒しの話を読みました。ペトロは8年間起き上がることができなかった者を、イエス・キリストの名によって、起き上がらせたのです。この出来事は肉体的な癒しとしても、そうですが、同時に、起きることができなくなった者を起き上がらせたことに注目できるのです。イエス・キリストを自らの主として受け入れる時、私たちは起き上がることができるのです。
主を心に受け入れ、告白していく中で、私たちは新しい命を得ることができるのです。主イエス・キリストは、命の滅び、死の出来事を超えて、新しい命の創造をなされた。復活されたのです。このイエス・キリストの復活は「失望することはない」ものです。目の前に、どれほど苦しいことがあろうとも、その苦しみは必ず打ち砕かれる。主イエスが、必ず共にいて、苦しみを受け止められ、新しい命の道を開いてくださるのです。
4: 主を呼び求める
私たちは今、キリストがこの世界にお生まれになったアドベントの時を迎えています。アドベントは、救い主イエス・キリストがこの世界にお生まれになったという出来事を、覚えて、待ち望み、心を整えていくときです。主イエス・キリストは、私たちの近くに、私たちの口に、そして私たちの心に来られたのです。私たちは、このキリストが来られたという救いの恵みを覚えて、心に迎え入れ、その口で、その恵みを表し、喜びを賛美していきたいと思います。
主を待ち望むこと。それは、ただ何もしないで、待つことではありません。今日の箇所では「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」(13)と教えています。主を待ち望む。それは主を呼び求めていくことです。それは、積極的に、イエス・キリストの救いを求め、生きていくことなのです。神様は、イエス・キリストによって、私たちに救いを与えてくださいました。
私たちはこの救いを求めているでしょうか。イエス・キリストを呼び求めているでしょうか。イエス・キリストによる神様の愛を心に迎え入れてていこうとしているでしょうか。そして、私たちは、イエス・キリストに従い、生きていくことを求めているでしょうか。もし私たちが、イエス・キリストではない何かに救いを求めているならば、そこにイエス・キリストは入り込むことはできないでしょう。私たちの心が何かでいっぱいになっている時、そこに神様は入り込むことができません。わたしたちはまず、自分の心にイエス様を受け入れる準備をしていきたいと思うのです。
主の名を呼び求める。それは私たちの心を整えていくことです。今、私たちの心のうちにある、いろいろな思い、恐れや不安、または傲慢や罪。その様々な思いを捨てて、イエス・キリストを迎え入れる準備をしていきたいと思います。(笠井元)