1 困難の中で
詩人は「神を待ち望め」、「御顔こそ、わたしの救い」と告白します。この言葉は、確信と信頼をもって、神様を賛美しているというよりも、うなだれ、呻き、苦しむ中、なんとか力を振り絞って「神様を待ち望もう」と自分に言い聞かせ、神様に祈る言葉に聞こえます。実際、詩人は周りの人からは「お前の神はどこにいる」とののしられていました。
2 魂の渇き
2節からは「魂の渇き」を歌います。わたしたちは魂の渇きを満たすために、様々なことをします。いわゆる勝ち組になることは渇きを満たす手っ取り早い方法なのでしょう。ここでは「鹿」となっていますが、すべての動植物にとって、水は生きるための命そのものといってもいいものです。同じように、人間は神様なしには生きていくことはできないのです。神様なしでは、どこかでいつも渇いている、満たされない者となっているのです。
3 渇きに進まれたイエス・キリスト
渇きは自分の魂が満たされていないことを気づかせる大切なことです。魂の渇きは、神様を求めます。私たちの魂の渇きを満たすために、神様が送って下さった方がイエス・キリストです。イエス・キリストは渇くことのない方でありながら、渇きを持つ人間として、この世界に来られました。イエス・キリストが私たちに与えられた、渇きを満たす、枯れることのない泉は「仕える者」として「共に生きる」ということをもって示されました。ここに私たちの心を満たす魂の安らぎを示されたのでした。
4 主を待ち望む
「神を待ち望め」。主イエス・キリストは、この世界に、私たちと共に生きるために来られました。共に痛みを分かち合い、共に喜びを受け取り、その心の恵みを分かち合うために、この世界に来られました。
私たちは、今、イエス・キリストの誕生を待ち望みましょう。主イエス・キリストは、その命をかけて、わたしたちと共に生きて下さいました。わたしたちもまた、お互いの痛みを分け合い生きる魂の恵みをいただきましょう。(笠井元)