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2020.1.5 「わずかなものを豊かなものとされる」(全文) マタイによる福音書14:13-21

1:  今日の箇所を理解するための考え方

 今日の聖書の箇所は、5つのパンと2匹の魚で、非常にたくさんの人たちの食事をまかなったという、たいへん有名な奇跡のお話です。新共同訳の小見出しでは「五千人に食べ物を与える」となっていますが、21節には【「食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」】(21)と記されていますので、実際には一万人は超えていたと思われるのです。そんなに多くの人たちを、たった5つのパンと2匹の魚だけで、すべての人を満腹させた。聖書には確かにそう記されているのです。しかし、このような出来事は、わたしたち人間の常識では考えられませんので、なかなか理解することが難しい出来事です。どうやったらこの話を理解することができるのでしょうか。この箇所を人間の頭でわかるようにするために、昔からさまざまな解釈がなされてきました。

 代表的な解釈としてこのような話があります。イエス様と弟子たちが、こんなに大勢の群衆に対して、わずか5つのパンと2匹の魚を配ろうとしていたことに対して、多くの人々が心を動かされ、それぞれ自分たちの持っていた食糧を出し合い、分かち合い、みんなで食べたという説があります。これは、イエス様の愛によって、群衆が愛を行う者に変えられた話として解釈することができます。また、別の解釈として、この食事は象徴的なものであり、霊的なことを意味していたという説があります。イエス様の教えによって、肉体的な飢えではなく霊的な飢えが満たされたという解釈です。この2つのどちらの解釈も、私たちが信仰生活を行っていく上でたいへん大事な点を教えていると思います。

 そのうえで、今日は、みんなで食べ物を出し合って、分かち合ったように互いに愛し合いなさいというような教えや、あるいはまた、私たちがイエス様からいただく本当に大切なものは霊的な糧なのだという教えとは、また別の解釈から見ていきたいと思います。

 

2:  イエス様と弟子たち

 今日の話のほとんど大部分は、実は、イエス様と弟子たちのやりとりになっています。イエス様と群衆ではなく、弟子たちと群衆でもなく、イエス様と弟子たちのやりとり。これが今日の聖書の箇所の中で行われていることなのです。つまり、今日のこの箇所は、イエス様と弟子たちとの関係の中で読み解いていくことができるのです。イエス様と弟子たちとの関係。それは15節の弟子たちの言葉から始まります。イエス様のもとへ方々(ほうぼう)から集まってきたたくさんの人たち。その数は女性や子どもを合わせると、一万人を超えるほどでした。イエス様のもとへと集まってきた人たちは、イエス様の教えに引かれて、誰一人として帰ろうとする者はありませんでした。それどころか、群衆はますます多くなっていきます。そうして群衆が熱中している間に、時はどんどん過ぎていき、夕暮れ時となりました。群衆はそれでも気にしている様子ではありませんでした。しかし、時の過ぎるのを気にしている人たちがいました。それが12弟子たちでした。イエス様の弟子たちは、ある意味でそこの群衆のお世話役として当然のことだったのかも知れません。しかし、群衆のお世話のことを気にしていた弟子たちは、イエス様の話を真剣には聞くことができていなかったのではないでしょうか。私たちも気を付けなければなりません。礼拝は誰か人に聞かせるためのものではなく、まず第一に、自分自身がイエス様の前に出るためのものであります。12人の弟子たちの気持ちが、どのように思っていたかどうか、本当のところはわかりませんが・・・「自分たちはいつもイエス様のそばにいるから、いつでも説教を聞くことができる。だから、今はお世話に徹しよう」という尊い気持ちがあったのかも知れません。

 とにかく、12弟子たちは群衆の夕御飯のことが心配で、イエス様の話どころではありませんでした。そこでイエス様にこう進言します。【「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。】(15)弟子たちは、我ながら良い提案だと思ったのではないでしょうか。イエス様は時も忘れて一生懸命に群衆に教えを説いておられる。しかし、今や夕暮れ時になり、夕御飯の心配をしなければならない時間になってしまっている。しかし、「イエス様、ご心配するにはおよびません。群衆たちを解散させましょう。そうすれば彼らは自分で食べ物を買いに行くでしょう。」それは、群衆のことを考え、またイエス様のことを思いやっているような発言でした。

 しかし、それは、実は、現場を放棄している弟子たちの様子でもありました。こんなに大勢の群衆に対して、自分たちで何とかできるはずがない。いや、何とかしようなどとは思いもよらなかったのかも知れません。私たちも、目の前に立ちふさがる問題があまりにも大きい時、最初からそのことを考えないことがあります。たったの12人で一万人以上いる群衆の夕食をまかなうなんて、とてもあり得ない。弟子たちは、そんなこと考えもしなかったのでしょう。

 

3:  弟子へのチャレンジ

 しかし、イエス様から返ってきた答えは実に意外なものでした。【「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」】(16)。「あなたがたが、与えなさい」。イエス様はそうおっしゃられたのです。これは弟子たちにチャレンジを与えた言葉であります。現状を見て判断するのではなく、かなわないと思っても問題に立ち向かって行きなさい。そのようなチャレンジを、私たちもイエス様からいただいているのだと思います。このイエス様のチャレンジの言葉を受けて、弟子たちはこう答えます。【「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」】(17)。「イエス様、パン5つ、魚2匹と、これしかないのです。いったいどうしたらいいんですか。いったいどうしろとおっしゃるんですか」。ここでの「しか」という言葉は、無理ですという意志表示です。「イエス様、そんなことは無理ですよ。一万人を越える人たちに対して、パンが5つと魚が2匹しかないのです。たったのこれだけです。これだけでいったいどうしろとおっしゃるんですか。」この弟子たちの言葉こそ、実は、私たちがいつも神さまに対して語っている言い訳ではないでしょうか。

 「神様、私の力はこれだけしかないのです。神様、私の賜物はこれだけしかないのです。神様、あなたがこれだけしかくださらなかったんです。能力がないのだから仕方ありません。これだけでいったいどうしろとおっしゃるんですか。」私自身いつも言い訳ばかりしています。「神様、私の時間はこれだけしかないのです。幼稚園もあります。自分のしたいこともたくさんあります。家族と過ごす時間だって必要です。お友達との時間も大切だし、たまには買いものをしたり、本も読みたいです。運動もしたいのです。だから、神様のために使える時間なんて、これだけしかありません。神様、あなたが下さっているお金も同じです。あれとこれとあれとこれに使ったら、神さまにためにはこれだけしか残らないんです。」と、いつも言い訳ばかり自分がいます 私たちはいつも、同じ言い訳を言い続けていないでしょうか。そして、これがないのもあれがないのも、時間がないのもお金がないのも、最後はいつも神様のせいにしてしまうのです。おもしろいことに、今日の聖書の箇所と同じ内容が載っている平行箇所で、マルコによる福音書とヨハネによる福音書では、200デナリオンものパンというように、必要なお金が計算されています。200デナリオンというと労働者1人分のほぼ年収に当たる金額です。1年分の年収に相当する金額が必要なのです。「どこにそんなお金があるというのですか。」弟子たちは、そうイエス様に語っているのです。

 

4:  ここに持ってきなさい

 そのような弟子たちの言葉に対して、そのような私たちの言葉に対して、イエス様はこう語られるのです。18節、【「それをここに持って来なさい」】(18)。「これしかないんです、イエス様。わずかこれしかないんです。一万人の群衆に対して、パンが5つと魚が2匹。たったのこれだけです。こんなわずかなもの何の役に立つでしょうか。」そう語る私たちに向かって、イエス様は【「それをここに持って来なさい」】(18)と言われるのです。それを、イエス様のもとへと持って来なさいと語られるのであります。

 考えてみますと、弟子たちはそれを隠し持っておくこともできたはずです。所詮、一万人に対して、パンが5つと魚が2匹。こんなもの足りるはずがない。最初からまったく足りないものを差し出せば、喧嘩になるかも知れない。そんなことならこれを取っておいて、もっと有効に使った方が良いのでは。群衆が解散した後に、イエス様と弟子たちだけで分けたなら、足りないけど少しは満たされるでしょう。パンも魚も有効に使える。非常に常識的に、そして効率的に、パンと魚を有効に使おうと考えたなら、これの方がより現実的な答えだろうと思います。そのようにして私たちは常に、常識的に、効率的に物事を考えることに慣らされているのです。しかし、信仰はそれとはまったく違う基準を私たちに与えるのです。人間の常識ではとても適いません。まったく足りないのです。こんなものが何の役に立つのでしょうか。これでは全然足りない。いったいどうしたらいいんでしょうか。そう尋ねる私たちに対して、イエス様は、「それをここに持って来なさい」と語られるのです。

 「それをここに持って来なさい」。私たちの持っているわずかなものをイエス様のもとへと差し出していく。それが信仰です。決して出し惜しみするのではなく、これしかない、けれども、これしかない精一杯のものをイエス様に差し出すときに、イエス様がそれを祝福してくださり、イエス様によってそこに奇跡が起こされる。ここで間違ってはいけないことは、多くあるなかから、これしか出さないという「しか」ではないということです。本当にこれしかない。「イエス様、もう、どう頑張ってもこれしかないんです」、といって私たちがイエス様の前に進み出るときに、初めて、イエス様はそれを豊かに祝福してくださるのです。そして、この私たちの差し出したわずかなものを祝福してくださる方こそが、主なるキリスト、イエス様なのです。イエス・キリストの前に、私たちの精一杯のわずかなものを差し出していく。キリストがそれを豊かに祝福してくださる。このことを信じながら差し出していく。これが信仰です。

 

5:  教会を通してなされていく

 さて、最後に私たちは、教会という観点から今日の聖書の箇所を見ていきたいと思います。ここで教会とは、群衆全体を指すのではなく、イエス様と関わる、12弟子を指すと考えても良いと思います。自分たちの持っているわずかなものを「これしかありません」と言って、教会がそれをイエス様に差し出すときに、イエス様はそれを祝福してくださり、その祝福を大勢の群衆と分かち合ってくださる。しかも、それは弟子たちの手を通して行われるのです。教会が自分たちの持っているわずかなものを、賜物や時間やお金、それらのものを、精一杯、献げて、それをイエス・キリストのもとへと持って行くときに、イエス様はそれを豊かに祝福してくださり、その祝福を大勢の群衆と分かち合ってくださるのです。そしてその出来事を通して、12弟子たちもまた、したがって教会もまた、イエス様から祝福を受けるのです。

 今日から、新しい一年が始まりました。私たちはこの新しい一年、私たちの持つ、わずかなものでも、精一杯、惜しみなく献げていきましょう。主は私たちのそのわずかなものをご覧になって、「それをここに持って来なさい」と語ってくださり、そのわずかなものを祝福して豊かなものへと変えてくださるのです。そして、私たちも、また、主の業にあずかる者とさせていただきましょう。

(笠井元)