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2020.1.26 「信仰の形を考える」(全文) マタイによる福音書15:1-20

1:  神様が愛されている                           

 イエス様は8節においてイザヤの言葉を用いてこのように言いました。【15:8 『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。15:9 人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』】(8-9)この言葉は、まさにそこにいた律法学者、ファリサイ派の人々の心を表した言葉であったのでしょう。「口先では神を敬うが・・・その心は神様から遠く離れている」。これがイエス様の見た、ファリサイ派の人々の心でした。みなさんの心はいかがでしょうか。私たちは今、神様と、どのような形で向き合い、つながることが出来ているのでしょうか。

 聖書は、まず神様が私たちとつながるために、イエス・キリストを送ってくださったことを教えます。それは、私たちから、自分の心を神様とつなげるために「あれをしよう」「これをしなければ」とする前に、神様の方から私たちに手を差し伸べて下さっているということです。わたしたちがすべきことはまず、この神様の愛を知ることから始まります。主なる神様が、私たちとの壁を取り除き、私たちとつながる道を開いてくださった。私たちは、この神様の開かれた道を知り、そして歩き出していきたいと思います。そして、このイエス・キリストによる救いを土台として生きていきたいと思うのです。

 

2:  形式主義

 さて、今日の聖書では、ファリサイ派の人々はイエス様に、【15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」】(2)と尋ねます。ここで言う「昔の人の言い伝え」とは、神様から頂いた律法を守るための細かい教えのことでした。もともと、旧約聖書では、モーセに十戒が与えられ、その十戒を中心に多くの律法が与えられました。ユダヤの民は、神様とつながるために、この律法を守ってきたのです。この律法を守ることによって、「汚れ」から離れ、「聖なる者」として神様に繋がっていこうと歩んできたのです。特に、ここに登場するファリサイ派の人々、律法学者とは、そのような律法を大切にして、厳守してきた人々でした。そして、ユダヤでは、この旧約聖書の教え、律法を守るために、生活の隅々において何を、どのようにするべきかということを考えて、それを「言い伝え」として伝えてきたのでした。「昔の人の言い伝え」とは、何か昔話や伝説のようなものではなく、これまでのユダヤの先達の人々が生活の隅々において、神様に従うために、どのようにしたらよいのかを、考えて、伝えられてきた大切な「言葉」でした。

 そして、その中で「手を洗うこと」「手の洗い方」も決められていたのです。この「手を洗う」という行為は、もともとは、礼拝する者が神様の前に立つための儀式として「手を洗う」と行為があり、それはすべての人間ではなく、神様の前に立つ、祭司に適用されていた律法でした。しかし、時代が進む中で「食事」自体が一つの大切な礼拝行為であると考えられるようになり、イエス様の時代には、一般の人々も、食事の前に「手を洗うこと」が広がっていたのです。「手」は生活の中で、一番様々なものに触れるものです。

 

 現在は、コロナウィルスによる新型肺炎が広がっていますし、またインフルエンザ、嘔吐下痢症など様々な病気が広がっています。その中で一番の予防策は、手洗いとうがいとされます。それは、「手」が生活の中で、一番様々なものに触れるからです。そのような意味でも「手」をどのような状態にしておくのかということは、とても重要なことでしょう。そのため、この「手」をどのようにしていくかというのは、人間を「聖める」ために、とても重要なこととされ、ユダヤでは、手の「洗い方」から洗う「水の量」までも考えられ、話し合われていたのです。

 

 そのように、ユダヤでは「手を洗うこと」は、ただ衛生的なきれいさ、清さを求めているのではなく、宗教的な聖め、聖さを求めた行為となっていました。このことがすべて悪いことではないでしょう。しかし、このような生活の隅々まで、「このようにするべきだ」「このようにしなければいけない」ということで、生活の形式を整えていくということには、「形式主義」を生み出す危険性があるのです。

 形式主義における問題は2つあります。一つは、「これさえ守っていれば大丈夫」という思いに陥るということです。このような思いは、神様に従うという「心」を失ってしまうのです。「言い伝えを守っていれば大丈夫」という判断基準ができていくときに、人間は、神様に従うとは、どのようなことなのかを考えるのではなく、何をしていればよいのかと、行為だけを大切にしてしまうのです。自分が何のためにこのような行為をしているのかということを考えないで、ただ、行うだけになってしまうということです。そして、それは神様に従うことの恵みと喜びを失っていくということにもつながっていくのです。

 そして、形式主義に陥るときのもう一つの問題は、この判断基準を持つことによって、他者を批判し、裁いてしまうということです。「決められた形式を守ることが正しく、守っていない人は間違っている」という考えに陥るということです。それは「なぜ自分が守っているのか」または、「どうしてあの人は守ることができないのか」という、その人、その人の、それぞれの状況や思い、立場や環境などを無視した、裁きが始まってしまうというということです。

 

3:  形式の意味と目的を考える

 私たちは、今、どのような信仰に生きているでしょうか。「あれをしていれば大丈夫」「これをしているから自分は正しい」という形式主義の信仰、つまり、「口先で神を敬いながらも、心は神様から遠く離れた信仰」となっていないでしょうか。「形式ではなく、思いを大切に生きる」ということ。このことは、とても難しいことです。なぜなら、どのような信仰にも、どのような生き方にも、何かしらの形式があるからです。「形式も形もない」「何をしてもよい」という教えがあるとしても、そこには「何をしてもよい」という形の信仰があるのです。

 私たちバプテスト教会は、形式ではなく、各教会、各個人の信仰を大切にしています。決められた教義はありません。また絶対にしなくてはならない信仰の形式、行為もありません。ただ、その信仰告白によって救いをいただくという、キリスト教会の中で言えば、とてもリベラルな考え方だと思います。しかし、そのようなバプテストも、各個人の信仰を大切にするという形をもっているということができるのです。むしろ逆に、バプテストは、形式にこだわる事に否定的であるという形をもっているということです。

 

 現在の日本社会は、いわゆる「アミニズム」という、なんでも神様にしてしまうという考えや「無宗教」という人が多いとされていますが、それもまた、そのような信仰の形をもっているということができるのです。あらゆる宗教、生き方、信仰において、そこには何かしらの形式があります。そしてそこには、それなりの意味があるのです。たとえば、礼拝を守ること・・・そこには多くの意味がありますが、簡単に言えば、神様との交わりに思いをはせ、心を神様の愛に開いくことです。そして、礼拝によって、キリストの愛に立ち返り、神様の愛を土台として生きることを受け取って、もう一度、日常生活において、愛され、愛する者として派遣されていくのです。そのような礼拝の意味、目的を考えるなかでは、礼拝に参加したくても参加できない方を切り捨て、裁くことが、本当に正しいことだとは言うことはできないでしょう。むしろ、参加できない人の思いを、分かち合い、祈り合っていく必要があると思うのです。

 信仰をもち神様と向き合って生きるためには、なぜ、この形式を持っているのか。この形によって、自分たちは何を得て、何を求めているのかを、考え続ける必要があります。そのような意味で、私たちが信仰に生きるためには、形式をもつことは必要なことであり、そのうえで、「形式主義」に陥ることなく、その意味と目的を大切に考えて、その時々にあわせて、形もまた変化させていく必要があるのです。

 

 イエス様は、10節においてこのように言われました。【15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」】(10-11)「聞いて悟りなさい」。神様は、私たち一人一人の行為のみではなく、その心の思いを見ておられるのです。そのような意味で、私たちもまた、自分自身の心の声を聞き、また他者の心の声を聞き、そして神様の思いを聞く必要があるのです。

 

4:  心にキリストを迎え入れる

 今日の箇所において、イエス様はまず、ファリサイ派の人々と律法学者と話し、そして次に群衆と話し、そして次に弟子たち、そして最後にペトロと話しをされたのでした。このように見てみますと、今日の話は、イエス様に遠い者から近い者との話し合いになっていることが見ることができます。しかし、イエス様は一番弟子のペトロに、16節において【「あなたがたも、まだ悟らないのか。」】(16)と言いました。この姿から、どれほどイエス様に近い者であっても、イエス様の言葉の意味を悟ることはできなかった姿を見ることができるのです。そのような意味で、ここでイエス様が言われている【盲人】とは、どれほど信仰に熱い者であっても、神様の前にあって、人間はすべての者が【盲人】であると見ることが出来るのです。またもう一つの言葉【「わたしの天の父がお植えにならなかった木」】もまた、すべての人間を意味していると、見ることができるのです。天の父、神様が植えられた木。それはイエス・キリストご自身です。そして目の開かれた人、それもまたイエス・キリストご自身のみなのです。私たちが神様の前に正しくされること。それは、このイエス・キリストにつながることから始まるのです。わたしたちはまず、このイエス・キリストを心に迎えていきたいと思います。神様は、私たちに手を差し伸べられ、イエス・キリストをこの世界に送ってくださったのです。神様は人間を愛された。私たちは神様に愛されている。まず、このことを受け入れましょう。神様が私たちを愛してくださっている。だからこそ、私たちは、その愛に応えて生きるのです。

 聖書ではこのように教えています。【22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」】(マタイ22:37-40)

 イエス様は、神様の愛を受け取り、そして愛されている者として、愛する者として生きるように教えられています。私たちは、神様に愛されている。この愛を、全力をもっていただいていきたいと思うのです。そしてそのうえにあって、隣人を自分のように愛する者とされていきましょう。私たちは、この神様のあふれる愛を心に受け入れ、に神様に従っていく者とされていきたいと思います。(笠井元)