1: ティルスとシドンに行く
今日の箇所は、なかなか理解の難しい箇所です。ここに現れるイエス様の姿が大好きだと言う人はなかなかいないでしょうし、この箇所が自分の好きな箇所ですと言われる方もあまりいないのではないかと思います。はっきり言って、今日の箇所におけるイエス様は、とても冷たい人に思えるのです。
まず今日の箇所は、【15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。】という言葉から始まります。この時点で、わからないことがあります。イエス様はティルスとシドンに行かれました。イエス様は別の箇所では、このように言われています。【11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。11:22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。」】(マタイ11:21-22)この言葉から読み取ることができるのは、コラジン、ベトサイダに向けて、「あなたがたは罪の町として、裁かれるティルスやシドン」よりも罪におぼれていると批判しているのであり、つまり、ティルスとシドンは、罪ある町、汚れた町としての代名詞の場所であったのです。ここで、イエス様はそのようなティルスとシドンに行かれたのです。なぜでしょうか。一つの理由として、今日の箇所の前にイエス様が、エルサレムから来た、ファリサイ派、律法学者と論争をしたため、怒ったファリサイ派の人々から逃れるために、このような辺境の地に来たと言われています。もう一つの考えとしては、いつも、群衆に囲まれていたイエス様でしたので、一度そのような場所から離れ、弟子たちの訓練をするためだとも考えられています。ただ、この二つは、あまり有力な解釈ではありません。一番に有力な解釈として考えられているのは、ここではティルスとシドンと記されてはいるが、その地方にユダヤの人々の大きな集落があり、そのような場所に来た。つまりイエス様はあくまでもユダヤの人々と関わるために来られたという考えです。どちらかというと、24節において、イエス様が、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われていることから考えると、この最後の考えが有力だと考えられています。
2: カナンの女 必死に救いを求める
ユダヤの民のところにこようとしたイエス様。しかしそこに、意外な人が追いかけてきます。カナン人の女性です。並行箇所のマルコ7章ではこの女性については、【7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった】と記されています。ギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれというのは、ユダヤからすれば異邦人ではありますが、ヘレニズム文化の文化的な人間として考えられます。しかし、マタイは、このマルコの記事を知っていました。そしてそのうえで、マタイはこの女性を「カナン人」としました。「カナン人」とは、ただの異邦人ではなく、その中でも特に、ユダヤ人から軽蔑された土着の民、汚れた人間、交わりたくない人間を意味します。ここでは、マルコで記されている文化人ではなく、より軽蔑された人間としてカナンの女性と記されているのです。
その軽蔑され、汚れた者とされるカナンの女がイエス様に叫びます。【「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」】(22)「主よ、ダビデの子よ」という言葉は、本来、イスラエルの民が叫ぶ言葉です。神様はダビデの子としてイスラエルに救い主を与えてくださる。そのように信じるイスラエルの民だからこそ、救い主を「ダビデの子」として呼ぶのであり、カナン人が救いを求めていたとしても、本来このように叫ぶものではないのです。しかし、ここでカナンの女性は、「主よ、ダビデの子よ」として、イスラエルの民を救い出す救い主としてイエス様を認め、その救い主イエスに「助けてください」と叫んでいるのです。ここに、カナンの女の救いを求める必死さを見ることができるのです。
ここでカナンの女は、イエス様に救いを求めていきます。しかし、それに対してイエス様はとても冷たい対応をされます。まず、最初のイエス様の対応は、この叫びに対して、【何もお答えにならなかった】(23)のです。イエス様はこの女性の叫びに対して、簡単に言うと「無視された」のです。この「無視する」ということがイエス様の最初の応答の姿です。それでも追いかけてくる女に弟子たちは【「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」】(23)とイエス様に願います。ここには弟子たちの冷たさ、軽蔑した言葉を聞くのです。この言葉を受けて、イエス様はこのカナンの女に言います。【「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」】(24)イエス様は10章において弟子たちを派遣するにあたって、このように言われました。【10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」】このような言葉から、もともとイエス様の自己理解として、自分はユダヤの民に遣わされたという思いがあったと見ることができます。イエス様はこのあと復活の後に、全世界への福音伝道の命令をされます。しかしそれまでは基本的にイスラエルの悔い改めを求めて働かれていました。
しかし、それでもカナンの女性は救いを求め【「主よ、どうかお助けください」】(25)と言います。この女性からすれば、娘の命がかかっているのです。必死に救いを求めます。しかし、それに対してイエス様は【「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」】(26)と答えます。イエス様はイスラエルの民を「子ども」としてたとえ、異邦人を「子犬」としてたとえられたのです。これはカナンの女性からすれば、ただ自分の叫びを聞いてくださらないということだけではなく、自分だけではなく、カナン人全体を侮辱した言葉として受け取れる言葉です。この言葉を聞けば、さすがに怒って、逆にイエス様を侮辱して帰っていったとしても当然かもしれません。
しかし、このようなイエス様の言葉を受けても、この女性は怒りに燃えるのでも、悲しみ打ちひしがれるのでもなく・・・このように答えました。【「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」】(27)この言葉を受けて、イエス様は、【「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」】(28)と答え、この女性の娘の病気を癒されたのでした。
3: 救いを求める信仰
今日のこの箇所で学びたいことは、救いを求めるという信仰の姿です。私たちは、神様に救いを求めているでしょうか。キリスト教では「神様はすべての人間を愛されている」「あなたは、そのままの姿で愛されている」と「無償の愛」を語ります。もちろん神様はすべての人間を愛してくださっているでしょう。それは間違いないのです。私たちは、神様の愛に守られて、日々、生かされているのです。ただ、「だれでも、どのような時も愛されている」という事だけを見ていく時に、救いを求める必死さというものが欠けてしまうことがあるのではないでしょうか。神様が私たちを愛して下さっている。私たちは神様の偉大な愛によって、愛されていただいているのです。私たちは、その愛に甘えてしまい、いつの間にか「自分は救われて当然だ」「愛されて当たり前だ」、そして「自分は何をしても大丈夫」むしろ「自分を愛さない神様は受け入れない」となってしまうことがあるのではないでしょうか。
今日のカナンの女性は救いを求めました。娘の癒しという救いです。しかし、イエス様は簡単には話を聞いてくれません。それだけではなく、自分を侮辱するような言葉を言ってきます。しかし、このカナンの女性からすれば、それくらいのことは大したことではなかったのかもしれません。娘の命がかかっているのです。自分にできることなら何でもする。それがたとえどれほど苦しくても、娘が癒されるならば・・・と思っていたのではないでしょうか。女性は「主よ、助けて下さい」「神様、私を愛してください。」「憐れんでください」と叫びます。私たちは、この女性の救いを求める姿に学びたいと思います。私たちが愛されているのは、「当たり前」のことではないのです。むしろ、いつも自分勝手で、自分のことばかり考えている。自分からは誰かを愛そうとしていない者。お互いにお互いを認めることができない。いつも迷って、悩んで、お互いに苦しめあってしまう。それが私たち人間ではないでしょうか。
そして、だからこそ、そのような弱さの中で、迷っている人間を愛するために、神様は、御子イエス・キリストの命をかけて、この世界にイエス・キリストを送ってくださったのです。この愛は、キリストの命をかけた、神様の恵みです。この神様の恵みは当たり前に与えられるような、軽いものではないのです。神様に愛されていることは当然のことではないのです。私たちのために、神様は御子イエス・キリストの命を捨てられたのです。イエス・キリストは、私たちを愛し、血を流されて、痛み、苦しみ、叫びの中で死んでいかれたのです。
カナン人の女性は、「主よ憐れんでください」「助けて下さい」。「私はあなたの恵みを受けるだけの資格も、価値もないかもしれません。それでもあなたは、そのような者も愛してくださっていることを信じます。」「このような小さな者ですが、どうか愛してください。」「助けてください」と必死に救いを求めたのです。ここに救いを求める本当の信仰を見るのです。私たちはこの信仰を学びたいと思います。
4: 求めて、勝ち取る救い
私たちも、神様に見捨てられたと思うときに、救いを求めていきたいと思うのです。「なんでこんなことばかり」「どうしてこんなつらい思いばかり」「神様は自分のことを愛しておられるのだろうか」と悩む時、神様の恵みの愛を求めていきたいと思います。現在は、新型コロナウイルスによる肺炎が世界中に広がっています。「なんでこんなことが起こるのか」「神様は、人間を愛されているのだろうか」と悩むこともあります。そのような時に、私たちは、「こんな神様はいらない」と、神様を受け入れなくなるのではなく、このようなときだからこそ、神様に「愛してください」「助けてください」「憐れんでください」と強く祈っていきたいと思うのです。
旧約聖書でも、同じように神様の恵みを求めた人がいました。アブラハムの子、イサクの子、ヤコブです。ヤコブは、何者かと格闘する中で、腿の関節を打たれました。ヤコブは、それでもその人を放しません。ヤコブは【「祝福してくださるまでは離しません。」】(創世記32:27)と言いました。腿を怪我しても放しません。必死に祝福を求めるのです。その上でヤコブは【「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」】(創世記32:29)と言われ「イスラエル」という名前を頂き、祝福を勝ち取るのです。
私たちも、救いを勝ち取るほどに求めていきたいと思うのです。挫折や困難、壁にぶつかることもあるでしょう。病や死という理解できない苦しみに出会うこともあります。しかし、だからこそ、そのようなときにこそ、このカナンの女性の姿のように、また、ヤコブのように、神様の救い、愛を求めて行きたいと思うのです。求めて、求めて、なんとか神様の恵み、その愛を勝ち取る。その姿に本当の信仰をみることができるのではないでしょうか。私たちは、「絶対、神様の恵みをいただくのだ」と決心して、神様に向き合い、求めていきましょう。(笠井元)