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2020.2.13 「暴力の連鎖からの解放」(全文) マタイによる福音書26:47-56

 今朝選んだテキストは、イエス・キリストの受難物語つまり、十字架で見捨てられ、死の苦しみを受け取る出来事の一節です。主イエスのこのような受難を覚え、心に刻むレント(四旬節)は、今年は、226日から始まります。また、先日211日は、平和を求め「信教の自由を守る日」でした。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という主イエスの言葉は、211日とレント(四旬節)に挟まれた16日の主の日の礼拝の聖書箇所に相応しいと思いました。

 実は、昨年末(29日)の元ニッサン会長のゴーンさんの、不法国外脱出劇がありました。ニッサンでの彼の行動が有罪か無罪かは裁判が決めることですが、金と権力があれば何でも可能であるかのような印象をもたせることは確かでしょう。そして、国の主権を無視した点では同じですが、13日、米国のドローンによるイラン革命防衛隊指導者ソレイマーニのイラク国内での抹殺事件で新しい年が明けました。これも革命防衛隊のテロと米国の暴力のどちらが正義かの問題かは別として、「ドローン」で人を殺すことができるという恐ろしさを含めて複雑な想いを持たせたのではないでしょうか。さらに、18日イランによるウクライナ旅客機誤爆・墜落事件と続きました。そして、これは暴力の問題ではありませんが、コロナウィールスの問題です。これも下手をすると中国人差別や集団監禁・拘束という暴力の問題を孕んでいまあす。暴力と暴力、軍事力と軍事力の危うい均衡をもくろむ21世紀の政治世界に直面して、私自身、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という主イエスの言葉を一か月半考えてきました。

 この個所は、主イエスが逮捕される場面です。ゲッセマネの苦悩の祈り、つまり、人間を赦し、救うためには、神のみ子が苦しみを受け、父なる神から見捨てられ、殺される以外の選択肢はないのかという苦悶の祈りの場面です。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」で終わった祈りの直後のこの逮捕劇です。46節の「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」という言葉に続き、日本語には翻訳されていませんが、47節にも「見よ」と言われていて、「イエスがまだ話しているときに、見よ、一二人の一人のユダがやって来た」で始まる箇所です。

 

1.この個所の構造

 この個所は三つのエピソード(挿話)からなっています。第一は、4750節です。ユダの接吻で起こるイエスの逮捕です。第二は、5154節です。ある者がイエスに手をかけたとき、弟子の一人は手を伸ばして剣を抜いて大祭司の手下に切りかかったという証言です。有名な、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉が続く場面ですが、臨場感溢れた場面であり、イエスを捕縛する手、短剣を引き抜く手という2つの「手」が印象的です。彼らはどのような「手」をしていたのでしょうか? 絵を描く人はこの二つの手に光を当てて描いたら興味深い絵になるかも知れません。第三は、5556節です。締めくくりの部分を含んだ群衆への主イエスの語りかけです。第一と第三は簡単に触れることにして、今朝は、第二のエピソードに焦点を当てたいと思います。

 

2.ユダの裏切りとイエスの捕縛

 第一は、ユダの裏切りの場面です。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆が剣や棒を持ってゲッセマネの園にやってきます。オリーブの木の生い茂る暗い庭でイエスを見つけ、捕まえることは容易なことではありません。弟子の一人ユダは自分が抱き着き、接吻した男がイエスだと予め合図をしていたのでした。「先生(ラビ)、こんばんわ」という普段と変わらない挨拶をしますが、イエスは「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われます。この個所は翻訳するのが難しい箇所です。文字通りに翻訳すれば、「なんのためにあなたはそこにいるのか?」です。分りにくいからでしょうか、マルコ福音書はこの言葉を伝えていません。従来の英語の聖書では、「友よ、あなたがなぜ、ここにいるのか」と疑問文にしていますが、最近では、「友よ、あなたがここでしようとしていることをするがよい」と翻訳し、新共同訳もこれに倣っています。「友よ、そのためにあなたはやってきたのだ」(ルツ)と翻訳するドイツ人学者もいます。何はともあれ、愛情とか敬意を示すはずの接吻が、裏切りのしるしとなるとは何という皮肉、悲しみでしょうか。この世界では皆さんもどこか同じような経験で苦しまれたことがあるかも知れません。また、ユダはこのとき、どのような気持ちであったのでしょうか?誰かがしなければならない「役回り」を彼が担わされたとすれば、これもまた悲しい、苦しいことだったことでしょう。愛情とか敬意を示すはずの接吻が、裏切りのしるしとなる。このような人間の暗い・悲しいあり様を聖書は知っているのです。

 

3.神の主権と弟子たちの逃亡(群衆の前での主イエスの弁明)

 第三のエピソードでは、「強盗」にでも向かうように捉えにきたのか、という主イエスの言葉が記憶されています。ヨセフスという有名なユダヤ人の歴史家は、この「強盗」という言葉は、専らユダヤ人のゲリラ的闘争者に関連して用いられ、自分たちのために武装し、ときに正義のための闘いと称して、「調達」という名の強盗をはたらいていた者たちを意味していると言っています。暴力はもう一つの暴力を生み出すのです。イエスはこのような武力による革命家の嫌疑を掛けられて、十字架で殺されるわけですが、二人の「強盗」が一緒に十字架につけられたと言われています。イエスはこのような疑いを掛けられたことに対して、自分はエルサレムの神殿で教師(ラビ)として「座って」公然と教えていただけであると弁明しています。そして、無抵抗、非暴力で捕縛された無力なイエスを目のあたりにして「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とこの個所は締めくくられています。こうして、こちら側から、つまり、弟子たちから、人間の善意や勇気や正義感などから神に至る道は閉ざされ、深い断絶が神と人との間に横たわっているのです。神と人との間の橋渡しは一方的に恵みとして神から来なければならないのです。このようにイエスの苦難を通じて、一方では、人間の思い込みや弱さの深みが、他方では、神の一方的救いの恵みが示されることは、神の計画であり、それは、「預言者たちの書」が実現するためであったと言われています。イエスの受難は歴史的には様々な原因・理由が織りなされて起こったことですが、実は、ヘブライ語聖書、特に預言者たちの言葉の成就であると言われています。私もそう信じています。

 

4.武力の放棄

 それでは、今朝のメッセージの中心に移ることにしましょう。第二のエピソードである5154節です。ユダの接吻を合図に、人々は進み寄り、イエスに手をかれて捕えます。その時、イエスと一緒にいた者の一人が剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした」と言います。マルコによる福音書では「居合わせた人々のうちのある者」(1447)と漠然としていますが、マタイによる福音書は「イエスと一緒にいた者の一人」と言って、弟子たちの一人であったことを暗示しています。ヨハネによる福音書になると、それがペトロであり、切り落とした耳は、相手の右の耳であったと伝えています。切られた人はマルコスという名であったと言います。(181011)。ルカ2241は「そこでイエスは『やめなさい。もうそれでよい』と言い、その耳に触れていやされた」とあるだけです。私には大切であると思われる、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(52節)あるいはヨハネ1811「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか」というような伝承は記されていません。このような決着の仕方が、貧しいことの幸いを強調しますが、武力そのものを禁止しない、簡単な平和決着を好む、いかにもルカらしい信仰です。しかし、マタイによる福音書は、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と語る主イエスを強調しています。

 

4-1 暴力の連鎖を乗り越えること

 「剣をさやに納めなさい」についてですが、ギリシヤ語には「さや」という表現はありません。「もとの処」という表現です。まさか抜き身の短剣を隠していたわけではないでしょうから、「元の処」イコール「さや」と翻訳しているわけです。

 U. ルツという学者は、「剣をもとの場所に納めよ」との命令の根拠は、創世記9:6の「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される」という箇所を引用して、このような「同害報復法」(目には目を、歯には歯を)が有名です)であり、マタイ712「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたには、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」にも用いられていると指摘しています。この言葉が暴力的に逮捕されるという危機的な場面で、正当防衛が成り立つような場面で語られていることに意味があると思います。ここで、主イエスは、悪に対して、暴力に対して、絶対的無防備、また、暴力の絶対的放棄を語っている処に、イエスの決断の意味、正当な「自己防衛」にさえも余地を残さない徹底的で、妥協のない平和主義を語っているわけです。マタイ538以下では主イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」人間というものは歯をやられたら、歯も目もやり返し復讐がエスカレートしてしまう。しかえしをするなら歯には歯を、目には目だけにしておけというものです。43節以下では、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。主イエスはご自分で言われたことをこの最後の場面で、実証・実行されたわけです。暴力の連鎖を克服するものは、更に暴力を増強することではないと言うのです。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われて、弟子たちを、そして、私たちを何とかして暴力の連鎖から自由にしようとされるのです。

 たぶん、このような行為を実行することは私たちには困難です。特に、激しい気性で、自分の正義感を振り回しがちな私には難しいです。しかし、少なくとも、私たちは、そのようにされたお方がここにおられるということ、イエス様はそうされたということを証言せねばならないでしょう。

 

4-2 昔の人の解釈 主イエスの言葉の割引

 キリスト教の歴史においてこの個所は様々に解釈されてきました。確かに、相手の悪に我慢することで、明確な態度決定をしないことで、相手をダメにしてしまうことがあるでしょう。足を踏まれたら「痛いよ、誤れよ」、「御免なさい」という対話が必要でしょう。もし相手が、赦罪したら私は赦すことにしています。また、赦罪へ導くためにはまず、「北風と太陽の話」ではないですが、相手を受け入れることが大切だということも理解できます。宗教改革者マルティン・ルターは、「この言葉は私的なことではなく、政治・行政を行う人たちへの「職権・権力の乱用」を誡めているのであり、キリストは剣が有効なことを確認していると解釈しています。同じ宗教改革者ジャン・カルヴァンも、「市民的裁判所と良心の区別」(civile et conscientiae forum)が大切で、市民法では正当防衛は当然許されるが、個々人の争いにおいては、つまり、良心のまえでは、「混じりけのない情愛」でそれが起こった場合にのみ許されると考えました。しかし、混じりけのない情愛かどうかを確かめることは難しいですね。宗教改革の当時、さらに宗教改革を徹底しようとした再洗礼派(アナバプテスト)は、「イエスが言うように、剣と愛とは相容れないものであり、もし剣が愛であるなら、人が他者を撃ったとしてもキリストはペテロにまさに禁じなかったことであろう。」といい、いかなる暴力も放棄しました。これに対し、ツヴィングリという改革者はアナ・バプテストに反論し、「主はここで剣の使用と秩序を廃止したのではなく、ペテロの誤用を叱責したのである」と言っています。私がかつて住んでいたチューリッヒの中心にはチューリッヒ湖からリマト川が流れていますが、ツヴィングリの銅像が、河畔のバッサーキルヘという教会の脇に建てられています。ツヴィングィは片手に長い剣、片手に聖書を持っています。彼は政治と宗教が癒着した教会から独立しようとした再洗礼派(アナ・バプテスト)のマンツという人を鉄のオリに入れて、リマト川に沈めて殺しました。そして、ツヴィングリが牧師をしていた教会、グロースミュンスター教会の塔には、いまでもその鉄の籠が吊るされています。こうして歴代のキリスト教会はこのイエスの言葉を割引して水で薄めて現在に至っているわけです。

 

5.主イエスの尊厳と自由 

 53節―54節には「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかし、それでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。とあります。最古の福音書であると考えられているマルコによる福音書にはこの言葉がありません。ローマ軍の一軍団は5600人からなり、皇帝アウグストゥスは常備軍25軍団を擁していたと言われています。単純計算で言えば、イエスはおよそ7万の天使の軍勢の助けを呼ぶことができると言ったことになります。これは「負け犬の遠吠え」のようなコケ脅しを意味しているというより、主イエスの受難は、単に受け身ではなく、積極的に担われたこと、父なる神と共に御子イエスも全能の神も子であられたけれども、あえて、主イエスは権力を使うことを放棄された、ここに主イエスの尊厳、自由があるということでしょう。エドワード・シュヴァイツァーの言葉を引用します。「神は、基本的に、力をもって目的を達することをしない。彼は『信仰』を求める。信仰も強いられてではなく、愛と同じように、自由でなくてはならない。真の信仰は、まさに神が最も無力であるところ、イエスの十字架において生起する。」

 神からの一方的な愛と恵み、人を救うこと、それがイエス・キリストの身代わりの苦難と死において起こったことです。もし、主イエスの尊厳と自由があったとしたら、この無力さの中にこそあるのだと言えるでしょう。(松見俊)