「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という主イエスの言葉は、2月11日の「信教の自由を守る日」とレント(四旬節)に挟まれた16日の主の日の礼拝に相応しいと思います。世界の至る処で暴力的事件が起こり、暴力的精神が世界を支配しています。
この個所は、イエス逮捕の場面ですが、ゲッセマネの祈り、つまり、人間を赦し、救うためには、神のみ子が苦しみを受け、父なる神から見捨てられ、殺される以外の選択肢はないのかという苦悶の祈りの後に登場します。この個所は、47-50節、51―54節、55-56節の3つのエピソード(挿話)から成っています。
1.ユダの裏切りとイエスの捕縛
ユダの裏切りの場面です。愛情とか敬意を示すはずの接吻が、裏切りのしるしとなるとは何という皮肉、悲しみでしょうか。この世界では皆さんもどこか同じような経験で苦しまれたことがあるかも知れません。
2.神の主権と弟子たちの逃亡(群衆の前での主イエスの弁明)
第3のエピソードでは、無抵抗、非暴力で捕縛された無力なイエスを目のあたりにして「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と言います。人間の善意や勇気や正義感などから神に至る道は閉ざされ、深い断絶が神と人との間に横たわっているのです。神と人との橋渡しは一方的に恵みとして神から来なければならないのです。
3.武力(暴力)の放棄
イエス捕縛のため派遣された男の耳を、弟子の一人が切り落とします。 U. ルツは、「剣をもとの場所に納めよ」との命令の根拠は、創世記9:6の「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される」という「同害報復法」(目には目を、歯には歯を)であると言います。ただ、イエスの言葉が、暴力的に逮捕されるという危機的な場面で語られていることに意味があると思います。たぶん、圧倒的暴力に直面し、このような非暴力・無抵抗を実行することは私たちには困難です。しかし、少なくとも、そのようにされたお方がここにおられるのです。
4.イエスの言葉の割引・水増しの歴史
5.主イエスの尊厳と自由
主イエスの受難は、単に受け身ではなく、積極的に担われました。E. シュヴァイツァー「神は、基本的に、力をもって目的を達することをしない。彼は『信仰』を求める。信仰も強いられてではなく、愛と同じように、自由でなくてはならない。真の信仰は、まさに神が最も無力であるところ、イエスの十字架において生起する。」神からの一方的な愛と恵み、人を救うこと、それがイエス・キリストの身代わりの苦難と死において起こったことであり、それは、暴力の連鎖を食い止めるこの無力さの中にこそあるのです。(松見俊)