1: 山上の説教を思い起こす
癒しの話、少ないパンと魚で多くの人々を満たしたという話は、14章にも同じような話がありました。ルカはこの2回目の記事を省略しました。マタイにはこの記事を残した意味があったのでしょう。
イエス様は「山に登って座れた」のです。イエス様は同じことを、マタイ5章の山上の説教の前にもなされました。マタイはイエス様が同じ動作から始めることで、読む人が山上の説教を思い起こすことを目指しているのです。山上の説教とは、イエス様が、神様に従い生きることの本当の喜びと恵みを教えた言葉です。律法の完成、成就のための教えです。
2: 癒しと供食
イエス様は、山上の説教として神様の救いの恵みを語りました。今日の箇所では、神の救いの御業として、「癒し」と、「供食」という行為をなされたのです。イエス様が癒しを為されたということは、ただそこにいた人々の肉体的な病が癒されたということではなく、心の底にある苦しみから解放されたことを意味しているのです。イエス様は「かわいそうだ」(32)と言われました。これは別の言葉では「はらわたのちぎれる想いがする」と訳される言葉です。イエス様は、群衆を見て、ご自身が激しい痛みを受け、張り裂けそうな苦しみの想いになられたのでした。
3: 共に生きておられるキリスト
イエス・キリストは、この人々の為に命をかけて、癒しをなされパンを与えられたのです。イエス・キリストによる救いとは、神が「我々と共におられる神」となられたということです。人生において、苦しいことは「孤独」です。神様は、「孤独」に襲われる私たちに「私があなたと共にいる」と言われるのです。群衆は、肉体的痛みに苦しみ、また心の底から飢えていたのです。そして、イエス・キリストによる救いを必要としてきたのでした。私たちは、キリストによる救いを求めているでしょうか。
4: 弟子たちによって
イエス様が裂かれたパンは、イエス様から弟子たちに渡され、弟子たちが群衆へと配っていくのです。イエス様は、十字架上で自らの体を裂き、私たちに命のパンを与えられたのです。私たちもまた恵みを受け取った者として、イエス・キリストという命のパンを配る者とされていきたいと思います。イエス・キリストの十字架の愛は、自分のところで留めておくものではありません。私たちは孤独ではなくなったのです。キリストがつなげてくださった神様とのつながりを広げる者とされていきたいと思います。(笠井元)