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2020.3.1 「どこまでも隣にいてくださる方」(全文) マタイによる福音書16:1-12

 今日も、私たちは、聖書から神様の御言葉を受け取っていきたいと思います。今日の箇所では、1節からファリサイ派とサドカイ派の人々とイエス様のやりとりがあり、そのあと5節から弟子たちとイエス様とのやりとりと続きます。ここで共通するのは、ファリサイ派の人々も、サドカイ派の人々も、そしてイエス様の弟子たちも、みんながみんな不信仰であったということです。「不信仰」である。それだけ聞くと、とても耳が痛い話に思えます。しかし、今日の箇所はその人間の不信仰を指摘し非難するのが目的ではありません。今日の箇所は、そのような不信仰でしかいられない人間を、愛して下さっている神様の大きな愛を教えているのです。神様は人間を愛されています。人間の信仰とは、その愛を受け入れて信じることです。私たちはこの神様の愛を受け入れていきましょう。今日は、そのことを頭に置きながら、お話しを共に見ていきたいと思います。

 

1:  ファリサイ派とサドカイ派の不信仰

 今日の箇所で、まず、ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が、イエス様のもとへやってきました。ファリサイ派とサドカイ派という二つのグループは、本来一緒にいることなどありえない二つのグループでした。ファリサイ派というのは、聖書ではイエス様の論敵としてよく登場して、どちらかというと悪者のような立場の人々として映っているかと思います。しかし、もともとファリサイ派というのは民衆の中にあって、モーセの律法の大切さを説いた人々であり、貧困層の人々に支持者が多かった人々でした。そのようなファリサイ派だからこそ、同じように貧しい者のところに来られたイエス様とも向き合い、論争をするところにいたのです。それに対して、サドカイ派というのは、権力者と結託していた祭司のグループであり、神殿の権威をもって、権力を誇ったグループでした。サドカイ派を支持するのは富裕層の人々でした。

 ファリサイ派とサドカイ派には様々な違いがありますが、その一番の考えの違いは、「復活」についてでした。使徒言行録23:8においてはこのように記されています。【サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。】(使徒言行録23:8)ファリサイ派は死者の復活を信じていました。しかしサドカイ派は死者の復活を信じていなかったのです。ここに信仰の決定的な違いがありました。このような大きな違いを持つ二つのグループが本来一つになることはあるはずがなかったのです。しかしここでは、この二つのグループの人々が一つになって、イエス様のもとにやってきたのです。

 

 そして、「天からのしるしを見せてほしい」と、イエス様を試すのです。このとき、ファリサイ派、サドカイ派の人々は、イエス様を救い主として信じるために、心から「しるし」を願い求めたのではありませんでした。むしろ、どのようなしるしを示したとしてもイエスを主と受け入れることのない、心を閉じた状態の中で、イエス様を試したのです。ファリサイ派、サドカイ派の人々は、イエス様の言葉や業を理解しようとも、受け入れようともしていませんでした。ここにこの者たちの不信仰があります。

 

2:  弟子の不信仰

 これに続いて、5節からの箇所においては、イエス様の言葉を理解することができない弟子たちの姿があります。イエス様は【「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」】(6)と言われました。しかし、このイエス様の言葉を、弟子たちは、自分たちがパンを持ってくるのを忘れてしまったことを指摘されているのだと勘違いをしたのです。このやりとりを理解するためには、まず前提にパンの大切さというのがあります。イエス様が悪魔の誘惑を受けたときに引用した言葉ですが、申命記にはこのように記されています。【8:3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。】(申命記8:3)

 「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉で生きる」のです。この言葉は、「生きるのにパンは必要ない」と食べ物を軽視した言葉ではありません。むしろ食べ物とは、神様の言葉と比べられるほどに大切なものであるということです。パン、食べ物はとても大切なものです。人間が生きる基本的生活を送るための、最低限に必要な物として、「衣食住」が必要であると言われています。その中でも、「食」つまり食べることが出来なければ、人間だけではありません、ありとあらゆる生き物は生きていくことができないのです。パン、つまり食べる物がなくては人間は生きていけません。だからこそ、ここで弟子たちがパンを忘れたことに執着することは当たり前のことなのです。パンがなくては飢えて、死んでしまいます。

 

 このような弟子たちに、イエス様は語られます。【16:8「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」】(8-11)

 イエス様は5つのパンと2匹の魚から5,000人以上の人を満腹にさせ、パン7つと少量の魚で4,000人以上の人々を満腹にさせたのです。弟子たちは、目の前にある問題、食べ物についての問題を見る中で、このイエス様の御業を忘れてしまっていたのでしょう。この弟子の姿が、人間の姿を表しているのだと思うのです。神様による恵みを頂いて、喜んで歩き出しながらも、その生活の中で、目の前に大きな問題、困難が出てくると、すぐにその恵みの御業を忘れてしまう、これが人間の弱さです。

 皆さんも、同じことを経験したことがあるのではないでしょうか。神様に愛されていることを覚え、喜んで生き初めたのに、少し問題が生まれると、すぐにイエス様から離れてしまう。そのようなことの繰り返して生きているのではないでしょうか。

 

3:  隣にいてくださる方

 今日の箇所において、イエス様は、弟子たちが悟るように、話し続けます。今日の話は、マルコによる福音書にも同じ話が出てきます。しかしマルコでは、最後はイエス様が【「まだ悟らないのか」】(マルコ8:21)と言って終わっているのです。ある意味、イエス様が弟子たちを叱責して話が終わってしまうのです。それに対して、今日の箇所では、イエス様は弟子たちを諭し、弟子たちが正しい理解をしていくのです。マルコでは、弟子たちの無理解を表して終わりとなる話ですが、マタイでは、一時的な間違いがありながらも、最終的に正しく理解していく弟子たちの姿があるのです。ここにあるイエス様の姿は、弟子たちの隣で、弟子たちを正しい道へと導く姿があるのです。最初にも言いましたが、今日の箇所では、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々の不信仰の姿があり、また弟子たちの信仰の弱さが記されます。今日の箇所ではイエス様は、そのような人間の弱さの隣に立って、弟子たちを諭してくださるのです。これがここに表されるイエス様の姿です。

 今日の箇所において、イエス様は、【「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」】(4)と言います。「ヨナのしるし」。それは、旧約聖書の預言者ヨナが大きな魚の腹の中に三日三晩いた後、そこから出されていったという「しるし」です。預言者ヨナは、神様から預言者として、ニネベの人々に神様に悔い改めるように伝えるように、示されたのです。しかし、ヨナはこの神様の命令から逃げ出したのです。そして船で逃げる中、大きな嵐にあい、結局、船から海の中に落とされて、魚に食べられてしまうのです。ヨナは、三日三晩、その魚のお腹の中で、神様に逆らったことを悔い改めたのでした。そして、その悔い改めにより、魚から吐き出され、今度は神様に従い、その御言葉を伝えていくのです。このヨナの出来事は、イエス・キリストの死と復活の予兆として語られているのです。つまり、イエス様は、「ヨナのしるし」として指しているのは、ヨナが魚に食べられ、三日三晩、祈ったように、イエス様ご自身の十字架における死を表し、三日後の復活を意味しているのです。

 イエス・キリストは人間の弱さの隣にいて、信仰に導いてくださるのです。しかし、それは、ただイエス様が神の子として、力ある業で引っ張っていくということではありません。むしろ、十字架という死を受けられ、罪人とされ、あざけられ、苦しみ、しかも、その時、弟子たちは逃げ出し、その弟子たちに裏切られ、孤独の中で、死んでいったのでした。これが十字架のイエス・キリストであり、私たちの救い主の姿です。

 

 先日、ある人から突然「キリスト教ってどのような宗教ですか?イエスが教祖で、イエスのように、教えを守って自分を高めていくようなものでしょうか」と質問されました。その人は、聖書に触れたことがあったそうです。そして、その中では、聖書は、自分をどのように高めていくのかを教えている書物だと思っていたようです。キリスト教とは、自分を高めて、自分が仏や神になることを教えているものではありません。むしろ、キリスト教の信仰とは、そのようになれない自分の弱さを認めることから始まるものです。

 神の子イエス・キリストが、人間の弱さのうちに来られた。そしてそのような弱さをもつ人間と神様を繋ぐために、神の子イエス・キリストが人間となり、人間の弱さを引き受け、苦しみ、死なれたのです。神様は、このイエス・キリストの十字架の死によって、人間の罪、不信仰、弱さをすべて受け止められる者となってくださったのです。ここに救いが与えられたのです。そのような意味で、キリスト教は、まず、自分の弱さを認めることから始まり、その弱さを引き受けてくださったイエス・キリストに神様の愛が表された。その愛を信じることなのです。

 イエス・キリストは、私たちの隣にくるために、苦しみと痛みを持って、生きて、死なれたのです。この十字架のイエス・キリストは命をかけて、私たちの隣にいてくださる。決して私たちを、見捨てることはないのです。どれほど逃げ出したとしても、どれほど信仰を失ったとしても、そこにイエス様は来てくださるのです。

 そして、イエス・キリストは、十字架の内に死に、三日後によみがえられました。復活されたのです。それは新しい命の始まりです。イエス・キリストは死に飲み込まれ終わるのではなく、新しい命の創造をなされたのでした。今日の箇所では、弟子たちは、イエス様の言葉を理解することができませんでした。しかし、そのような弟子たちが、そのままの姿で打ち破れていくのではなく、イエス様の言葉によって、悟っていくのです。イエス様の言葉が、弟子たちを変えていきました。ここに主イエスが共にいて下さる中にあって変えられていく、新しい人間の姿があるのです。

 

4:  心を開いて従う

 私たち人間は、完全なる者、神になることはできません。しかし、神様は、そのような私たちを愛し、隣にイエス・キリストを送って下さいました。そしてこのイエス・キリストが私たちの隣で、私たちを導き、神様の御許へと導いていてくださるのです。このイエス・キリストの御言葉に耳を傾けていくとき、私たちは、神様に目を向けて歩む者とされていくのでしょう。

 大きな困難に出会う時、私たちは、右に左にと、神様から離れて、ふらふらと生きてしまう者です。しかしどこにあっても十字架のイエス・キリストが隣にいてくださり、復活のイエス・キリストが、新たな道を示してくださっているのです。私たちは、このイエス・キリストの言葉に心を開いて、受け取って、いきたいと思います。(笠井元)