1: 光の必要性
詩編119編が記された時代は真っ暗闇の道を歩かなくてはならない時代でした。街灯もなければ、コンビニなどもありません。その道を照らす光は必需品です。もし灯がなくなれば目の前は何も見えないのです。もしかしたら目の前は崖かもしれない。光のない中、暗い夜道を歩くことは、直接、死とつながる危険があったのです。
現代は夜でも散歩することもできます。私たちは、本当の暗闇というものをなかなか経験していないため、光を必要とする思いはだいぶ違うかもしれません。
2: 人生の困難、暗闇の中で
詩人は、この時、幸せいっぱいの状態ではなかったでしょう。むしろすべてが、八方ふさがりで、人間関係も、置かれている状態も、とても危険な状態になってしまっていたのです。そのような苦しみの中にある中で、主の御言葉こそが自分の命を照らす光であると信じているのです。
今の私たちは、肉体的には暗闇の中でも人間が作りだしている光によって進むことができるのです。そのために、人生の苦しみや困難に出会う時も、自分の力でどうにかなると考えてしまうのかもしれません。人生の困難に出会うことは昔も今も変わりません。そして光の必要性も変わらないのです
3: 何に救いを求めるのか
詩人は、神の御言葉を求めました。【主よ、御言葉のとおり、命を得させてください】(107)と御言葉による命を求めているのです。詩人は御言葉にこそ命があると信じて求めているのです。私たちは生きる道を見失った時、目の前が真っ暗になったときに、一体何に救いを求めているでしょうか。
4: 命の光、イエス・キリスト
神様の御言葉こそが、私たちの暗闇に光を与える唯一のものだと教えています。そしてイエス・キリストこそが、私たちを困難から救い出す、命の御言葉、命の光なのです。イエス・キリストは裏切ることはありません。このイエス・キリストによる救い、神様の御言葉が私たちの歩く道を照らしてくださることを信じて生きていきたいと思います。(笠井元)