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2020.3.8 「あなたの歩みを照らす神の御言葉」(全文) 詩編119:105-112

1:  光の必要性

 今日の箇所の最初、105節において、聖書はこのように語ります。【あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。】(105)この聖書箇所は、大変有名な箇所で、とても素敵な箇所です。教会関係のはがきや手紙にこの御言葉が書かれていることもあります。この言葉は「神様の御言葉は、わたしの人生の道の光、わたしの心を照らす灯」であるということです。私たちが、どれほどの暗闇の中にあろうとも、そこには必ず光があるということを教えている言葉です。

 現在、世界では、新型コロナウイルスによる新しい肺炎が流行っています。福岡ではまだ3名ということですが、世界ではすでに90,000人以上の人が感染しており、その中で3,000人以上の人が亡くなられているのです。この病気に対して、現代科学はどうすることもできません。人間の無力さを思い知らされるのです。そしてこのような不安と恐れの中で、もっと危険なことは、この病気による状況を過度に恐れ、人がお互いに傷つけあうことが始まっているということです。世界に闇が広がっているのです。人間がお互いを信頼し、お互いを大切にし、助け合い、支え合って生きていこうとするのではなく、不安という闇の中、何よりも「自分だけ」という思いが広がり、実際、いくつもの犯罪も起こり始めているのです。ここに暗闇の恐ろしさを見ることができるのです。このような恐れ、恐怖といった闇に光を与えるもの、それは神様の御言葉、キリストによる福音しかないのです。

 

 さて、詩編119編が記された時代は、現代とはまったく違う、本当の真っ暗闇の道を歩かなくてはならない、そのような時代でした。街灯もなければ、もちろんコンビニなどもありません。本当の真っ暗闇の中にあって、その道を照らす光は、必需品です。ここで、灯と記されているものは、当時、暗い夜道を歩くために、オリーブ油に亜麻糸などの、灯心を浸したランプなどです。この灯、ランプによって、夜道を照らし、その明かりによって、一歩一歩、歩くことができたのです。もし、この灯がなく、真っ暗闇の中を歩くということになれば、目の前は何も見えないのです。道に迷うのがあたりまえで、道につまずき、転んでしまう、もしかしたら目の前は崖かもしれない。光のない中、暗い夜道を歩くこと、それは、直接、死とつながる、それほどの危険があったのです。

 イエス様が十字架の上で語られた言葉【父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。】(ルカ23:46)という言葉は、詩編31編の言葉で、当時のユダヤの人々が、夜寝る時にお祈りした言葉でもあったそうです。イエス様の時代、夜寝ることは、本当の暗闇の中に入っていくことでもありました。だからこそ、闇に入る時、すべてを神様に委ね、ある意味そこで一度、命を神様にお返しし、そして、朝、新しく命を与えられていくという思いの中で、この「わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈ったのです。寝ることは死ぬこと、命を神様にお返しすることで、朝起きることは、新しい命をいただくということであったのです。

 そのようなユダヤの社会において、105節の御言葉【あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。】という言葉が語られたのでした。つまり、それは、神様の御言葉が死から命を与え、人生の道を照らす光であると詠っているのです。

 それに対して、現代は、どこにいっても街灯があり、24時間営業のコンビニやスーパーがいたるところにあります。街中では、夜でも懐中電灯を持たなくても、散歩することもできます。そのため、私たちは、本当の暗闇というものをなかなか経験していないのかもしれません。皆さんは光が全くない、暗闇を経験したことがあるでしょうか。本当に真っ暗闇の道を歩かなくてはならないことが、ほとんどない現代の私たちと、この詩が詠われた時とでは・・・光を求める思い、必要性が違うかもしれません。光。それは命を与えるもの、生と死に直結するものなのです。

 

2:  人生の困難、暗闇の中で

 ここで、詩人は、神様の御言葉に自分を委ねることを宣言しています。この詩人は、この時、決して、幸せいっぱいの状態ではなかったでしょう。107節では、【わたしは甚だしく卑しめられています。】(107)と語っています。この詩人はこの時、幸せと言うより、むしろ、がけっぷちの、危険な状態に置かれていたのです。そのような危険な状態を、109節では【わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。】と語っています。この言葉は、新共同訳ですと、少しわかりにくいのですが、口語訳では、口語訳109節【わたしのいのちは常に危険にさらされています。】と、このように言われています。 こちらの方が言葉としてわかりやすくなっています。「命が常に危険にさらされている」ということを、新共同訳では、「魂は常にわたしの手に置かれている」と訳しているのです。当時、大切な物を自分の手の上に置いて運ぶことは、とても危険なことであると考えられていたのでした。魂が自分の手に置かれていること、それは命が危険にさらされているという事なのです。自分の手、自分の力、自分の能力に、その命がかかっているとすれば、それほど危険なことはないでしょう。

 そして110節では【主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。】と語り、人間関係においても、とても辛い厳しい状況に置かれていることを告白しているのです。この詩人は、今や、すべてが、八方ふさがりで、人間関係も、置かれている状態も、とても危険な状態になってしまっていたのです。そのような苦しみの中にある中で、それでも、あなたの律法を決して忘れません。】(109)【それでも、わたしはあなたの命令からそれません。】(110)と語るのです。どれほどの困難の中にあっても、主の御言葉こそが自分の命を照らす、光であると信じて歌っているのです。

 

 先ほど、当時と現代とでは、その光の必要性を感じる重さは、違うものとなっていると言いました。しかし、人生の困難における救いの必要性、人生の中で出会う暗闇、そしてその暗闇を照らす光の必要性は、変わることはないのです。昔も今も、私たち人間が出会う、人生における困難、危険な状態、人間関係による苦しみや、痛みは、いつになっても変わることなくあるものです。それなのに、現代は、肉体的にはどこにいても光で照らされているためか、心の暗闇に気付きにくくなってしまっているようにも思うのです。

 この詩人の時代は、肉体的に暗い中で光は確かに必要である、ということを感じていた。だから人生が暗闇になった時には、自分を超える力の必要性をよくよく感じていたのでしょう。しかし、今の私たちは、肉体的に暗い闇に生きていることがあまりなく、暗闇の中でも様々な光、しかもそれは人間が作りだしている光によって進むことができているのです。そのために、人生の苦しみや困難に出会う時も、自分を超える力を求めるのではなく、それこそ、自分の力でどうにかなると考えてしまう、自分だけの力でどうにかしなければと思ってしまうのかもしれません。そこに大きな落とし穴があるのです。現実で、困難に出会うことは昔も今も変わりません。そして、その困難において、闇を照らす光も変わりなく必要なのです。私たちが困難の中にあって、生きるための救いの力は、この詩人の時代も現代も何も変わっていないのです。

 

3:  何に救いを求めるのか

 このとき、人生の困難に出会う中、詩人は、神の御言葉を求めていました。そして107節にあるように、【主よ、御言葉のとおり、命を得させてください】(107)と御言葉による命を求めているのです。詩人は困難の中にあって「御言葉」から離れることではなく、このような状況だからこそ、命を得させる「御言葉」に委ねていったのでありました。

 私たちは一体何に、救いを求めればいいのでしょうか。私たちが生きる道を見失った時、目の前が真っ暗になったときに、私たちは一体何に救いを求めればよいのでしょうか。

 

 以前、私が神学生の頃、教会によく来ていた、大学生の一人が、突然引きこもりになったことがありました。あとから聞くと、理由は「親友の裏切り」でした。自分の信頼していた友人が、自分を裏切っていったということから、人間を信じること、親や先生、教会の人、すべての人間を信じることができなくなって、怖くなり、外にでることができなくなったということでした。たった一人・・・と言ってはいけないのかもしれませんが、一人の人間の裏切りによって、心を閉ざしていったのです。そこには、心を閉ざさなくては生きていけいほどの、怖れと、不安が生まれていたのです。「だれも信じられない・・・」。家族も友人も信じられない中で生きていくことは、とても苦しいことです。本当に、目の前が真っ暗で、外に出ることなんかできなかったと聞きました。私たちが生きる道を見失った時、目の前が真っ暗になったときに、私たちは一体何に救いを求めればよいのでしょうか。

 

4:  命の光、イエス・キリスト

 今日の聖書の言葉は、そのような人間に、【あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。】と詠い、神様の御言葉こそが、私たちの暗闇に光を与える唯一のものだと教えているのです。神様は、既に命の御言葉、光の主を送ってくださいました。それこそ、イエス・キリストです。イエス・キリスト、救い主こそが、私たちを困難から救い出す「命の御言葉」「命の光」なのです。私たちの間に来られた方、イエス・キリストこそが、私たちを照らす「光」です。

 神様は、太陽や月のように天からすべてを照らしてくださっています。同じようにイエス様ご自身が神様なのだから、太陽や月のようにすべてを照らしてくださっていると、言うこともできるでしょう。しかし、イエス・キリストは、太陽や月が上から私たちを照らすようにと、それだけではなく、命の灯として、私たちの目の前に来てくださったのです。

 イエス・キリストは、この世界に人間として生まれられたのです。そして私たちと同じように、弱さを持ち、肉体をもって、この世界に生きたのです。イエス・キリストは、私たちのところへと来て下さり、困難の中にあって、共に苦しまれ、十字架において、私たちを受けとめてくださったのでした。イエス・キリストは命をかけて、わたしたちと共におられることを示してくださったのです。この方は、私たちを裏切り事はありません。たとえ、家族が私たちを見捨てようとも、たとえ友だちが裏切ろうとも、この方は命をかけて、私たちと共に生きてくださるのです。そして、私たちには、このイエス・キリストによって、つなげられている兄弟姉妹が与えられているのです。

 神様は、このイエス・キリストを通して、御言葉を送ってくださっているのです。それは「神様を愛しなさい」そして「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という言葉です。私たちは、この神様の御言葉を聞いていきたいと思います。ここに生きる光があります。

 私たちは、この神様の御言葉が私たちの歩く道を照らしてくださることを信じて生きていきたいと思います。イエス・キリストは、何があっても、どのような時にも、共にいて、御言葉を送り、私たちの歩みを照らしてくださっているのです。この恵みを信じて、どれほどの暗闇にあっても、希望を持ち、生きていきたいと思います。(笠井元)