人生において私たちを最も悩ませる問いは「なぜ?」という問いです。東日本大震災・大津波を経験した人々の多くは、「なぜ、自分は死ななかったのか?」という問いに悩まされています。その背後には、愛するあの人はなぜ死んでしまったのかという嘆きがあるのでしょう。現在は、新型コロナヴィールスの世界的流行で、全世界が見えないものへの不安で満ち、「どうしてなんだろう」と問いかけています。
1.「なぜ」という隠れた問い
今朝の物語は、「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」という導入の言葉で始まります。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したのですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。この問いの背景にも「なぜ」という問いがあります。しかし、「なぜ」という問いは私たちを袋小路に追い詰めます。
2.「なぜ」から「何のため」に
主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と宣言され、 「神の業が現れるため」と言われます。私たちは「なぜ?」、「誰が悪い?」「何が原因?」という犯人捜し・原因追及から「神の業が現れるため」と考える時に、「そのために」生きる勇気が与えられます。
3.躓き?
そして、主イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗られたのです。唾にはいやす力があると信じられていましたが、見えない目がかえって見えなくされたのでしょうか?
イエス様は、この人の目を癒すことに関心があることを伝えるためにそうされたのではないでしょうか!
4.シロアムの池へ
イエス様は、エルサレム城内の「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じます。それに従うと目が見えるようになり、イエス様に出会えたのです。
5.何を見ているか?
39節は、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』と言います。私たちが何を、誰を見ているのかを問いかけられています。不安の背後におられる主イエスに信頼しましょう。(松見俊)