詩編の言葉だけでなく、聖書の言葉はどこに立って読むか、誰を心にかけているかによって、響き方が変わってきます。最近は体調が悪く月一度天神に行っているゴスペルに参加できていませんが、直接目に見えない沖縄の軍事基地の問題、沖縄の人たちの気持ちになって聖句を読むと、み言葉の響き方が変わってきて、心に染み渡ります。コロナウイルス感染拡大で、全世界が不安と苦しみに喘ぐ時、人間が有限であり、赦された罪深い者たちであり、神に生かされていることは説明する必要もありません。主の家にいること・感謝の歌声(7-8節)、聖歌隊(他者と共に賛美する)と共に賛美すること(12節)ができないことは辛いことです。
1.主よ、あなたの裁きを望みます
今夜の詩編26編は、最初から違和感を覚える人も多いことでしょう。「主よ、あなたの裁きを望みます」。私たちは主なる神の「裁き」を望まない者ではないでしょうか?それは人間の「裁き」がどこか不公平、不正に関っているからでしょう。しかし、ここで「裁き」と翻訳されたヘブライ語はいつもお話している「ミシュパート」で公平・公正に裁いて下さるという意味であり、それゆえ「憐れみ」とも翻訳可能な言葉です。この世の強い者の裁きではなく、神の正しい裁きであるからこそ、それは「憐れみ」に繋がるのです。
また、ここで重要なことは、誰か他の人を裁くのではなく、「わたしを裁いて下さい」と言っていることです。それゆえ、口語訳はヘブライ語に忠実に、「主よ、わたしをさばいてください」と翻訳しています。
2.わたしは完全な道を歩いてきました
この言葉も、私たちを躊躇させます。だれが「完全な道」を歩むことができるでしょうか! しかも、「完全な道」が繰り返され、11節にも登場しています。しかし、聖書における「完全」とは「不完全である自分を受け入れること」に他なりません。皆さんは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリストに捕えられているからです。」(フィリピ3:12以下)というパウロの言葉に慰めを受けていることでしょう。
3.主なる神の慈しみとまこと
だからこそ、すぐさま、3節には、「あなたの慈しみはわたしの目の前にあり、あなたのまことに従って歩き続けています。」と言い、これもヘブライ語聖書のキーワードであり、毎回、祈祷会で語っていますように、主の「慈しみ」(ヘセド)を目の前にし、主の「まこと」(アーメンに繋がるアーマン=真実)において歩んできたと言います。また、11節の「わたしは完全な道を歩きます。」の後にもすぐさま、「わたしを憐れみ、贖ってください」(ヘブライ語の順序は「わたしをファーダー、贖い、救い出して下さい」そして「ハンネニー わたしに恵みを与え、憐れみ深くあってください」と加えています(口語訳)。また、1節でも「わたしは主に信頼してきたので、(滑って)よろめいたことはなかった」と告白しています。
4.偽る者と共に座らず、欺く者の仲間に入らず、
4-5節は詩編第1編に似ています。以上のことを前提にして、悪から遠ざかりたいと歌います。
皆さんがコロナウイルスに感染しないように、医療、介護者たちの上に主の支えを祈ります。(松見俊)