1: 神の思いを求めて生きる
今日から、教会では牧師と協力牧師での礼拝となり、教会員の皆さんは、各自が家庭で礼拝を持っていただくこととなりました。たぶん皆さんもだと思いますが、私は人生で初めての経験となります。このような中、今日は「自分の思いではなく、神様の思いで生きる」という説教題にさせていただきました。 私だけでなく、皆さんも、そして世界中のだれもが、今、どのような道を選ぶことが正しいことなのかはわからないと思うのです。この新型コロナウイルスが収束した後、結果として「あれはよい判断だった」とか、「あれは間違っていた」と考えることはできるでしょう。しかし、真っ只中にある今、どのような道を選ぶことが正しいのか、それは誰もわからないのです。
ただ、今だけでなく、どのような時もですが、何を求めて生きることが大切なのかは分かると思います。それは自分の思いではなく、神様の思いを求めていくことです。
2: 受難予告
今日の箇所は、これまでなされてきたイエス様の福音宣教から、受難に向けて新しく歩き出す場面となります。これまでイエス様は様々な教えを語られ、奇跡や癒しを起こされてきました。そして、弟子たちをはじめとする、多くの人々がイエス様のみ言葉を聞くため、癒されるため、恵みを頂くために、従ってきたのです。そのような中で、イエス様は、ご自身が苦しみを受けて、殺されると言いだしたのでした。弟子たちにとって、このような言葉は到底理解できなかったでしょう。
パウロはコリントの手紙でこのように言います。
【わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。】(Ⅰコリント1:23-24)
十字架につけられたキリスト、救い主。それは普通に考えたら、人間をつまずかせるものであり、愚かなものなのです。イエス様は、ここで、この躓きであり、愚かなこと、「メシアの死」を予告したのでした。
3: ペトロの反応
このイエス様の受難予告に対して、ペトロは【「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」】(22)と、いさめ始めたのでした。このペトロの行為は当たり前のことだと思うのです。私たちも、救い主と信じてついてきた方が「私は苦しみの中で死んでいく」と言われたら・・・「ちょっと待ってください」と言うでしょう。このペトロの「とんでもない」という言葉は、別の意味では「あなたに憐れみがありますように」という意味を持ちます。ペトロは、この時イエス様が、ファリサイ派、サドカイ派などユダヤの民からの反対を受けて、悲観的になってしまっていた。そしてイエス様が「もうどうすることもできない」「わたしはエルサレムに行って殺されてしまう」と、そのような絶望の思いを持ってしまった。だからそのイエス様に「あなたに神様の憐れみがありますよ」と励ましたつもりだったのです。
4: 神様の思いから外れる
このペトロの反応に、イエス様は、【「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」】(23)と言われました。イエス様はペトロを「サタン」と呼び、「引き下がれ」と言うのです。
この時、ペトロは、イエス様のことを思い、励ましの言葉をかけたはずでした。この言葉は一見イエス様のための言葉と見えるのですが、しかし実際はこのペトロの言葉は、ペトロ自身のための言葉であったのです。「イエス様、あなたは私たちがこの世で救い出されるための力を持っているはずです。私たちがあなたについてきたのは、あなたがこの世界で力ある方として、王となられるためです。だからこのような弱気なことを、言わないでください。あなたが死んでしまったら、私たちはどうすればよいのでしょうか」という思いがペトロの心の中にあったのです。
このときペトロは、神様の御心を求めてはいませんでした。神様の御心から外れてしまうこと。これがいわゆる「罪」、人間の「弱さ」です。私たちの「罪」とは何か悪い事をするのではなく、神様の御心から離れていく事、それが、本当の意味での「罪」なのです。このときイエス様は、ペトロを「サタン」と呼びました。つまり、ペトロが誘惑によって神様から離れた罪人になってしまっていることを指摘されたのです。
5: 自分を捨てる
このようなペトロに、イエス様は言いました。【「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」】(16:24-25)
イエス様は「自分を捨ててついて来なさい」と言われるのです。イエス様は、神様から心が離れていくペトロを見捨てるのではなく、そのペトロに言葉をかけてくださいました。私たちは弱い者です。しかし、だからこそイエス・キリストがこの世界に来てくださったのです。私たちが神様から離れていくとしても、私たちは、そこで見捨てられるのではありません。イエス様は、神様から離れる私たちに言葉をかけてくださるのです。
「自分を捨ててついて来なさい」皆さんは、今、何を手に握りしめて生きているでしょうか。
小学生の時によく「お願いが一つかなうとしたら何をお願いする?」と質問しました。これは質問ではなく問題で、正解があります。正解は「お願いが何度でも聞いてもらえることをお願いする」と、これが正解なのです。人間の強欲さがよく表れている言葉です。
逆に、何か一つを残してすべて捨てなければならないとした場合、皆さんは何を残すでしょうか。家族でしょうか。お金でしょうか。皆さんは何を大切にして生きているのでしょうか。わたしたちは、どこかで「自分の領域」というものを持っているのです。それがお金や名誉かもしれませんし、友人や家族、または自分の持つ考え方、倫理観、価値観かもしれません。どちらにしても、誰にも入ってもらいたくない、誰もいれさせない、決して手放すことができない「自分」というものを持っています。
イエス様は「自分を捨て、そこに神様を受け入れなさい」と言われているのです。「自分を捨て、神様に従う」ということ。それは、私たち自身の今の存在を否定しているのではありません。そうではなく、どのような時であっても、私たちの存在を愛してくださっている神様を受け入れることなのです。神様は「私はあなたを愛している」「あなたは愛されている」と教えられているのです。このことを心の一番真ん中に置くこと、イエス・キリストによって実現された神様の愛を、握りしめて生きていくこと、それが「自分を捨て、自分の十字架を背負い、キリストに従うこと」なのです。
ペトロは、このときは自分を捨てることができませんでした。ペトロはこの後、起こされたイエス・キリストの十字架という現実に出会い、復活のイエス・キリストの新しい命に出会うときに、自分を捨て、イエス・キリストによる新しい命を受け取ったのでした。私たちが自分を捨てること。それは、与えられている救い、神の愛を受け入れること、そして自分で罪をぬぐい去ろうとするのではなく、すでにぬぐい去ってくださった、イエス・キリストの十字架を受け取り、そして、新しく与えられた復活の命を心の中心に生きていくことなのです。
6: 十字架を背負う
最後に、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という言葉を見ていきたいと思います。私たちに求められていること。それは、自分の弱さ、欠点を含めて、イエス・キリストによって愛されていると受け入れていくことです。
私自身大きな病気を持つ中で、何度も「なぜですか」と神様に問いかけました。今でも、何度も神様に問いかけています。しかし、そのたびに教えられるのは、自分の弱さ、自分の持ちたくない欠点を含めて神様は、「私」を愛してくださっている。そしてイエス・キリストが共にこの苦しみを担ってくださっているということです。私は、共に生きて、共に苦しむ方、十字架のイエス・キリストを受けいれ、従いていくことに自分の十字架を背負っていくということを教えられます。
先週はイースター、復活祭でした。共に、イエス・キリストの復活を喜んだのです。今日の言葉では、イエス様は自らの死を予告すると共に、復活をも予告されているのです。私たちの主イエス・キリストは、十字架で死に、そこに愛を表し、同時に復活し、そこに新しい命の道を開かれたのです。神様は、私たちに、新たな道を開いてくださったのです。
今、私たちは困難の中にあります。私たちは「なんでこんなことが起こるのだろう」「神様なぜこんな苦しみを与えるのですか」と思うでしょう。このようなときにこそ、今、ここに主イエス・キリストが共にいてくださることを受け取りたいと思います。そして、同時に、神様の導き、神様の道は十字架でとどまるのではなく、復活という新しい命の道を開いてくださることを信じていきましょう。(笠井元)