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2020.4.26 「種を蒔き、水を注ごう~神様に期待して~」(全文) Ⅰコリントの信徒への手紙3:1-9

 今日の聖書個所は、2020年度の主題聖句であり、また説教題は今年度の標語となります。「種を蒔き、水を注ごう」。今、この新型コロナウイルスの感染が広がる中で、自分はどこに種をまき、どこに水を注ぐのかを考えさせられるのです。外に向けて「伝道しよう」。「神様の愛を伝えよう」。この思いが間違っているとは思いませんが、どこかで「自分はすでに神様の愛をいただいている者だから・・・大丈夫、自分は種を蒔くもので、いただく者ではない」という思いがありました。

 今、私たちはどこに福音の種を蒔くのでしょうか。私は、皆さんと同じ場所で、共に礼拝をすることができない中で、自分が福音の種をいただきたい、そして、皆さんと分かち合いたいと願うようになりました。今、このような困難の中にあるからこそ、皆さんと共に集まり礼拝するこがこれほど自分の心を満たしていたことを再確認することができました。私は、また皆さんと共に礼拝することが来ることを神様に期待し、待ち望んでいます。今こそ、共に祈り合うという恵みをいただきましょう。私も皆さんのために祈っていきたいと思います。皆さんも祈ってください。神様に期待して、お互いに、種を蒔き、水を注ぎ、またお互いに種をいただき、水をいただいていきたいと思います。

 

1:  兄弟と呼びかける

 さて、パウロは今日の個所でまず、コリントの人々に向けて【「兄弟たち」】(1)と呼びかけたのです。Ⅰコリントの3章においてパウロは、コリントの人々を「乳飲み子」また「肉の人」と呼んでいきます。この呼び方は、パウロがコリントの人々の弱さを指摘した呼び方となります。このように呼ばれたコリントの人々は「自分たちを馬鹿にしている」と思うかもしれません。しかし、パウロはそのように呼ぶ前に、まずコリントの人々を「兄弟」と呼びました。パウロは、決してコリントの教会の人々を馬鹿にしているのでも、その信仰を否定しているのでもないのです。パウロはまず「あなたがたは、神様による私の兄弟です」、つまり「神様に愛されて、共に祈りあい、愛し合う関係にある者なのです」と言いました。

 キリストにおける「兄弟」。マルコによる福音書でイエス様は【「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:34-35)と言われました。教会では、お互いのことを「兄弟姉妹」と呼び合います。それは私たちがキリストによって結ばれた、家族であり、兄弟姉妹だということです。ここからパウロはコリントの人々の信仰についての指摘をしていきます。しかしそれは「兄弟」に対する愛を基とした願いなのです。

 

 コリントでは宗教的に熱心な思いを持つ中で争いが起こっていました。「神の知恵とはどのようにして獲得するのか」、「偶像礼拝とはどのような行いなのか」、「結婚生活について」、「礼拝について」、「復活とはどのような意味なのか」と、話し合っていたのです。この議論が熱心になりすぎて問題が起こってしまっていたのです。このコリント人々に、パウロは信仰の修正をするための手紙を書いたのです。そのためにまずコリントの人々に「兄弟」と呼びかけました。「自分はあなたがたの兄弟であり、あなたを愛している」と伝え、そのうえで神様に立ち帰るための言葉を語ったのです。

 

2:  肉の人

 当時、コリントの教会の人々は霊的成長を熱心に求めていました。自分たちのことを「霊の人」と呼んでいたともされます。そのようなコリントの教会の人々に対して、パウロは「あなたがたは肉の人」であると指摘するのです。「肉の人」「霊の人」とは、どのような状態をいうのでしょうか。コリントの教会の人々にとっての「霊の人」とは、「知識を持ち」、「奇跡をおこなう力を持ち」、「異言を語り」、「信心深く、清い生活を送ることができている」、そのような者が「霊の人」だと考えていたのです。

 コリントの人々にとっての関心は、あくまでも「自分」にありました。自分が立派な人間になることでした。【「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」】(3:4)と言い合っているのは、パウロとアポロのどちらが優れた教師であるか、そして自分のほうがより優れた先生に従っているのか・・・結局、自分の方が優れていると言い合っていたのです。コリントの人々の、関心はあくまでもパウロやアポロにあるのでも、もちろん神様にではなく、自分にあったのです。このようなコリントの人々をパウロは「肉の人」と呼んだのでした。

 「関心があるところに信仰がある」といわれますが、皆さんは今、何を一番の関心事として過ごしているでしょうか。コリントの人々の関心は自分にありました。そして、このような自分自身への関心が、争いを生み出したのです。

 

3:  霊の人

 「霊の人」。それは、「自分のための神様」から「神様のための自分」と変えられること、そして「自分のためのイエス・キリスト」から「イエス・キリストのための自分」と変えられていくことです。「神様のための自分」としてこの世界で生き続けられた方、それはただ一人イエス・キリストです。イエス・キリストは、神様の御子でありながらも、この世界に人間としてこられました。そして、どこまでも神様に従う従順な者として生きたのです。イエス・キリストは、「自分のため」ではなく「神様のため」に生き続けた。そしてその最大の行為としての十字架があったのです。フィリピの信徒への手紙では、イエス・キリストは神の身分でありながら、自分を無にし、死に至るまで、へりくだり従順に生きられたと教えます。

 「霊の人」となるとは、私たちが何か努力することによって達成できることではありません。

 ただ神の前にへりくだり自分の弱さを認め、イエス・キリストによる神様の恵みを受け取るということです。イエス・キリストは、神様のために生きられました。私たちの信仰とは、このイエス・キリストが必要であるということを受け入れ、神様の愛の福音を土台として生きることなのです。

 

4:  種を蒔き、水を注ごう

 最後に、今年度の主題聖句となります。7節から学んでいきたいと思います。6節からお読みします。【3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。】(3:6-7)

 2020年度は、福音の種を蒔き続けること、同様に水を注ぐことを続けていきたいと思います。そして同時に、実りを与えて、成長させてくださる神様に期待していきたいと思います。パウロは種を蒔き、アポロは水を注ぎました。つまり、パウロがコリントに伝道をし、教会を作り、そしてアポロがそのコリントの人々を励まし、成長していったということです。それは、時に、少し道を外れてしまっていたかもしれませんが、コリントの人々が神様を求め、霊を求め、熱心に福音を求めていたからこそ起こされていった出来事なのです。

 わたしたちもまず、自分自身が種をいただき、水を注いでいただきましょう。このキリストの愛を求めていきましょう。そしてまた、お互いに、種を蒔くもの、祈りあうもの、福音を分かち合うものとされていきたいと思います。神様は必ず私たちに最善の恵みをくださいます。この神様の御業に期待して、歩み続けましょう。(笠井元)