1.選び出されたテモテ
パウロは第二の伝道旅行を始めました。シラスを選び、シリア、キリキアという陸路で、第一回の宣教旅行で行った、デルベ、リストラ、イコニオンへと向かったのでした。このとき、パウロはテモテに出会います。テモテはキリスト教ユダヤ人を母親とし、ギリシア人を父とした人物でした。パウロは伝道をしていくためにテモテは必要な人物と考えました。
使徒言行録では、新しい指導者が選ばれていくにあたって、それぞれの場所で、必要な人物が選ばれてきました。1章で12弟子のイスカリオテのユダの代わりにマティアが選ばれました。マティアは、イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けて、十字架で死に復活され、天に昇って行かれた。その時をすべて共に生きた者として、マティアが選ばれたのです。6章において、ギリシア語を話すユダヤ人として選び出された7人【ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオ】はギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間に問題が起こる中で選び出されたのです。
ここで、テモテが選び出されたのは、キリスト教ユダヤ人を母親とし、ギリシア人を父としたテモテが異邦人伝道をするために、適当な人物だと考えられ選び出されたのです。
2.割礼の問題
ここで、パウロがユダヤ人の手前、テモテに割礼を授けた(3)とされます。この行為は、15章のエルサレムでの話し合いの後の出来事として、またパウロの信仰、神学から考えてありえないとされています。パウロはⅠコリント7:18-19ではこのように言います。【割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。】(Ⅰコリント7:18-19)
今日の記事は、実際にパウロが割礼を授けたとも、パウロが忠実なファリサイ派のユダヤ教徒であったことから、このような話が伝承として伝えられたとも言われています。真相はわかりませんが、どちらにしても人間パウロの弱さ、またはそれを伝えていく人間の間違いという人間の不完全さを読み取ることができます。
しかしまた、パウロは【わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ】と言います。人間は不完全な者であり、教会はその集まりです。そしてだからこそイエス・キリストが必要だと信じるのが信仰です。自分の弱さを知ることは信仰への第一歩です。
5節では、テモテが加えられ、パウロの第一伝道旅行において広められた福音が、この第二伝道旅行において、より一層強められ教会が日毎に成長していったことを伝えています。
3.閉ざされた道、与えられた道
6節より、パウロの伝道旅行の道が閉ざされていくのです。パウロはアジア州で御言葉を語ることを聖霊に禁じられたのです。アジア州を通ることが許されていれば、その先にはコロサイ、ラオデキア、エフェソなどがありました。第三回の伝道旅行ではその道を進んでいることから、パウロはその道を行きたかったのだろうと考えられています。
パウロ一行は、気を取り直して北上し、ミシア地方の近くまできて、今度はビティニア州に向かおうとしました。しかし今度はイエスの霊に許されず、西に向かいミシアを通ってトロアスに下ったのでした。パウロの伝道の道は二度も聖霊、イエスの霊によって閉ざされたのです。
私たちの人生においても、自分で考えていた計画が閉ざされること、また時には方向転換をしなければならない時があります。今がまさにそのような時でしょう。新型コロナウイルスによって、皆さんのこれまでの予定していた計画は崩れてしまっているのではないでしょうか。わたしたちは今どのように歩けばよいのでしょうか。
パウロはこのとき意気消沈していたのではないかと想像するのです。「自分は神様のために伝道していこう」と思い、旅を始めたのに二度もその道が閉ざされたのです。
そのようなときにパウロは幻を見るのです(9-10)。パウロは、自分の行く道を見失っていたときに、神様に道を示されました。この幻は、神様が現れて「マケドニアに行きなさい」と言われたのではなく、マケドニアの人が「わたしたちを助けてください」と言ったのです。パウロは、このマケドニア人の助けを求める言葉こそが神様の御心だと信じて歩き出しました。ここに新しい道が開かれたのです。
パウロは自分のためではなく、他者のために生きることこそが神様の御心だと気が付かされたのではないでしょうか。私たちは今、これまでの計画が閉ざされるなかで、隣の人の助けを求める声に耳を傾けていきましょう。家族や友人、教会の兄弟姉妹の心の声に耳を傾けて、祈り合い進んでいきましょう。そこに神様が御心にかなう道を開いてくださるでしょう。(笠井元)