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2020.5.10 「絶望から始まる希望」(全文) マタイによる福音書17:14-20

1:  弟子の不信仰

 今日の個所では、てんかんの息子を持つ父親が、イエス様を求めてやってきます。しかし、イエス様は山に登られていていませんでした。見てみると、山のふもとにはイエス様の弟子たちがいたのです。父親は、弟子たちに「息子をいやしてください」と願ったのです。弟子たちは、マタイ10章において、イエス様に選び出され「病人をいやし、死者を生き返らせ、悪霊を追い払いなさい。」と派遣されました。だからこそ「自分たちはイエス様の弟子として、イエス様から権能を授かり派遣された。この信仰によって癒すことができる」と思ったのでしょう。つまり、自分に自信があったのです。しかし、そこに落とし穴がありました。「自分は信仰を持っているからイエス様がいなくても大丈夫」と思うとき、そこにすでに不信仰が始まっているのです。そのようなイエス様のことを必要としない弟子たちに、癒しを行うことはできませんでした。

 

2:  「なぜ」から「なんのために」へ

 てんかんの息子を持つ父親は困り果ててしまったでしょう。せっかく癒しを期待してやってきたのに、そこにイエス様はおらず、残っていた弟子たちには何もできないのです。

 ここでのてんかんの息子の存在は、悪霊に支配された人間を表しています。突然、何かにとりつかれたように、火の中に飛び込み、水の中に倒れるのです。それは確かに悪霊に取りつかれたような姿であったでしょう。ただ、実のところは、同時にイエス様のことを忘れ、自分の力に頼った弟子たちの姿も同様に悪魔に支配された人間ともいうことができるのです。

 病気を持つこと自体はうれしいことではありません。それこそ、今は新型コロナウイルスによって多くの人々が亡くなり、苦しんでいます。世界は混乱し、多くの人々が不安と恐怖の中にいるのです。自分たちの力ではどうすることもできない。それはまさに悪魔に支配されているような出来事に感じます。しかしそのような困難に出会うこと、自分は弱い者、無力な者であるという現実を突きつけられるということは、神様に目を向ける一つのチャンスでもあるのです。このような困難に出会うとき、自分の無力さを感じる時、私たちは「自分が何で生きているのか」、「このような社会でなぜ生きているのか」その意味を考えさせられるのです。

 

 私たちは、なぜ生きているのでしょうか。先日見ていたドラマで、世界一の脳外科医が患者に「あなたは何のためにいきているのか」と聞かれたときに、答えることができなかったシーンがありました。そのドラマだけではなく、無宗教という信仰を持つ、日本には「神様のため」という考えは出てくることはありません。日本のテレビでの結論は、自分のために生きていた人間が、医者であれば患者のため、弁護士であれば困っている人のために変えられていくことを人間の成長として示していきます。簡単に言うと、「なぜ生きるのか」。それは「人間として成長するため」ということが結論となっているのです。

 松見先生は3月の説教の中でこのように言われました。『「なぜ」という問いは、袋小路、八方ふさがりになってしまう。そこから「なんのために生きるのか」と目を前に向けるとき、未来に希望が見えてくる、神様の恵みに目を向けることにつながる。そして、「何のために・・・」という問いの答えがそれは「神様の業があらわされるために」とされるとき「なぜ」という越えることのできない壁を乗り越えていくことができる』

 私たちが自分のために生きている限り、「なぜ」という壁を乗り越えていくことはできないでしょう。「何のために」。それは、神様の業が現わされるために生きているのです。ただ、神様の業、神様の愛をこの世に現すために生かされているのです。

 

3: 信仰の薄い者

 私たちは「自分で生きている」のではありません。「神様に愛され、生かされている」のです。このことを忘れてしまうとき、私たちは自分が「なぜ生きているのだろう」という八方ふさがりの問いに陥るのです。弟子たちは、イエス様に【「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」】(19)と問います。イエス様は【「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」】(20)と答えられます。

 「信仰が薄い」とはどういうことでしょうか。いわゆる「まだまだ未熟で、修行が足りない」といったものではありません。聖書の教える信仰が薄いとは「自分でどうにかなる」「イエス様はいなくても大丈夫」と思うことです。

 信仰の入り口は自分の力に絶望すること、自分ではどうすることもできないものがあることを知り、自分の弱さ、無力さを感じるところにあるのです。 今日の聖書に出てくる父親は、周りからは「悪霊に取りつかれた息子を生み出した父親」、それこそ病気と信仰が繋がっていた当時のユダヤ社会においては「信仰のない者」「神から見放された者」と非難されて生きてきたことでしょう。父親は何度も絶望したでしょう。「なぜ」「どうして」と苦しんできたでしょう。

 

4:  からし種一粒の信仰

 そこにイエス様がやってこられたのです。父親はわらにもすがる思いで、イエス様に「息子を憐れんでください」と願ったのでしょう。まさに「からし種一粒」のような希望であったでしょう。自分にも、イエス様の弟子にも何もできませんでした。この父親は、「からし種一粒のような信仰」、しかし「ただ神様のみを求める信仰」の中で、神様の愛と出会ったのです。ここに本当の癒しを得たのです。それは「神様があなたを愛している」「あなたは神様のために生きる」という神様の変わることのない愛と生きる希望を頂いたということです。

 それは「なぜ生きるのか」という問いから「何のために生きるのか」という希望に変えられたということでもあります。からし種一粒の信仰。それは小さい小さい信仰でしょう。しかし、それは自分の弱さ、自分の小ささ、自分の力の貧しさに気づかされた信仰です。神様を必死に求めるという信仰なのです。

 わたしたちは、今、新型コロナウイルスという病の前に、抜け出すことができない闇を見ているのです。「なぜ、こんなことが起こるのか」と思います。しかし、このような困難の中にこそ、イエス・キリストはきてくださったのです。私たちは、困難の中、絶望する中で、イエス・キリストを求めていきましょう。そこに神様の愛を知ることができるでしょう。そしてそこに生きる希望を得るのです。(笠井元)