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2020.5.17 「見えないものに目を注ぐ」(全文) Ⅱコリントの信徒への手紙4:16-18

 私たちは現在、コロナウイルス感染を防ぐために共同の主日礼拝を持てていません。人生72年、献身して53年間まったく予想できない出来事です。しかし、皆さん、私は不思議な経験をしています。412日のイースター礼拝を境に、日常的に経験していた「目に見えていた兄弟姉妹の交わり」が突然「目に見えなくなってしまった」と思いました。しかし、実は、今まで見えていなかった兄弟姉妹の豊たかで温かい交わりがあったし、今もあること、今まで目に見えていなかったものが見えるようになったという不思議な経験です。皆さんもたぶん同じような新鮮な驚きを感じておられるのではないでしょうか?今朝は」「見えないものに目を注ぎます」というパウロの言葉からメッセージをから聞き取りたいと思います。

 

1.わたしたちは落胆しない

 パウロは「わたしたちは落胆しません」とはっきり言います。実は1節においても、「そういうわけで、わたしたちは憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」と言っています。二度目の「落胆しない」という告白です。ギリシヤ語で「落胆する」は「こころを失う」というような意味で、絶望する(アウトハウス)、失望する(青野訳)というような意味です。しかし、「胆」(キモ)が落っこちてしまう、落としてしまう、「落胆する」というのは言葉として現実味がありますね。なぜ、パウロは「落胆しない」と言うのでしょうか。私たちの日常の生活に現れる自分の弱さ、突然見舞われる理不尽な困難に落胆する自分がいるからではないでしょうか!新型コロナウイルス感染拡大への不安、コロナ後の社会への想い。管理され、統制される息苦しい世界の到来、仮想現実が現実と錯覚されてしまうような社会を考えるとゾッとして落胆してしまうからです。今回の降って湧いたようなウイルス登場で、人間は「土のチリ」から造られた脆い器(アダム)に過ぎないことを知らされています。しかし、脆い土の器ではあるけれど、同時に、その土の器に、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光、宝、命の息を吹き入れられて生かされている事実を感謝と喜びをもって生きていると実感しているのではないでしょうか?!不思議に聖書の言葉が輝いてくるのです。「わたしたちは落胆しません」。

 

2.二種類の人間

 パウロは宣言します。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えても、わたしたちの「内なる人」は日々新にされていきます。パウロはここで人間の二面性、二重性について述べているのではありません。二種類の人間について語っています。あるいは二つを比べています。「外なる人」と「内なる人」、「一時の、過ぎ去るもの」と「永遠のもの」、「軽い艱難」と「重たい栄光」、「目に見えるもの」と「見えないもの」です。「外なる人」とは外面的な朽ち逝く肉体的なものだけではなく、神の恵みから新しく生まれていないもののことです。ですから、魂も心も「肉」なのです。他方、「内なる人」とは、精神的な人、宗教的で、敬虔な人という意味ではありません。そうではなく、神の息を新しく吹きかけられ、よみがえらされた主イエス様のみ霊によって生かされている、魂と身体からなる人を意味しています。

 そしてパウロは、「外なる人」と「内なる人」、肉の自然の魂と身体で生きる人と神の恵みと聖霊によって生きる人とを区別するだけでなく、私たちの味わっている艱難とやがて受け取ることになる永遠の栄光を比較しています。確かに私たちは艱難、苦難、悲しみに出会います。それは確かに一つの現実です。しかし、同時に私たちは、永遠の栄光へと造り変えられる希望に生きてもいるのです。これもさらに勝った現実なのです。そして、私たちが味わう艱難は「一時の軽い」ものであり、重みのある永遠の栄光とは、比べものにならないと言うのです。

 

3.見えないものに目を注ぐ

 そして、パウロは、「見えるもの」と「見えないもの」を比べています。なぜ、わたしたちは落胆しないのでしょうか?それは「見えないもの」に目を注ぐからです。私はイースター礼拝の説教の最後で、再び皆さんと相まみえるときには、東福岡教会はもっと素晴らしい教会になっているはずであると言いました。見えないものに目を注ぐとき、裏切られ、見捨てられ、孤独の中で十字架につけられた主イエス様が復活されたことを信じるとき、見える関係が断ち切られるように思える時に、人が傷つき易くなるときに、少し互いに対して優しくなり、互いにいたわり合い、妙に人恋しさを覚えるのです。自分たちが掴んでいたと考えていた絆が苦難・艱難を通して、神様から繋ぎ直されるからです。東福岡教会の皆さん、今ご家庭で、あるいは二人で、あるいは、一人で礼拝をしている皆さん、あるいは、働かざるをえなくて労働を通して神を礼拝している皆さん、見えないもの、豊かな聖霊の働きによって一つに結び合わされましょう。

 

4.日々新たにされる

 聖霊による交わりは、「日々新しいものにされる」日々、day by dayです。これからは、どのような基準で、どのようなタイミングで、どのような段取りで、礼拝を皆さんに開くことができるか、難しい選択を迫られるでしょう。その知恵を与えられるように祈りましょう。いわゆるパンデミックは第二次、第三次が大変であり、多くの死者を出したことを100年前の「スペイン風邪」が教えています。二、三年で五千万人が死んだといわれています。そして欧州の人口の三分の一、二千万人以上の命を奪ったペストも、度々周期的に襲ってきたと言われています。今年の冬、来年の春、そして、また、再来年の冬、艱難は続くかもしれません。あるいは幸運にもこのまま収束してしまうかも知れません。だれも分かりません。

 このような状況の中で、日々新たにされる「内なる人」とはどのような人、どのような生き方でしょうか?

 一方で極端な潔癖症・消毒魔の問題です。体温測定中毒です。手が荒れて、やがて張りつめた神経が疲労し、そこから、差別と敵意、排斥を生み出します。マスクをしていない人への警戒感、市や県、国を跨いで越境してくる人への敵意と差別です。異質な人への敵意と差別です。自分という人間が恐ろしいです。

 他方で、コロナ疲れではないですが、感性を疑うような楽天的不用意さです。たぶん、人は人類を脅かすウイルスと「共存」しなくてはなりません。安易な解決、希望的観測にしがみつく無邪気さでの問題です。希望を語るのが牧師の仕事ではないですか!?そういう自分が恐ろしいです。しかし、この両極端は古い人、外なる人の喘ぎなのです。私たちはその両極端の「狭間」を歩まなくてはなりません。人は必ず死にます。しかし、神の時が来るまでは死んではなりません。「外なる人」「見えるものによって生きる人」とはこのような両極端に振り子のように振れる人です。このような極端に私たちが陥れば陥るほど、ある種の政治家たち、ある種の大企業は、この時とばかり、息苦しい監視と統制社会の支配を導入してくることでしょう。しかし、それらは見えるものに過ぎません。見えるものは過ぎ去りますが、見えないもの、父なる神の恵みの、主イエスの愛、聖霊の交わりは永遠に存続するのです。皆さんは、この信仰によってますます連帯して生き、連帯しながら個人の尊厳・個性を大切にする生き方を貫いて下さい。それができるように、イエス・キリストがすでにおいでになり、また、来ていてくださいます。一時的で、過ぎ去るものに支配されてはなりません。自分の愚かさを笑う自由、艱難の中で何か面白いことを考え、実行できる自由を与えられるように祈りましょう。「だらか、わたしたちは落胆しません。」私たちはクリスチャンではないですか!(松見俊)