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2020.5.27 「自由に生きること」 使徒言行録16:16-34

1. 女奴隷の解放

 パウロとシラスは占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会います。女奴隷の主人たちは、この女性の占いによって多くの利益を得ていたのでした。

 主人たちにとってこの女性は、一人の人間ではなく、金もうけのための道具としてしか考えていなかったのです。パウロは、この女性にとりついている霊に対して、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」(18)と言いました。この言葉によって、女性は解放されたのです。しかし、この女性が解放されたことを、その主人たちは喜びませんでした。主人たちの求めていたのは、自分たちの利益であり、女性の救いではありませんでした。

 金もうけのために、他人を利用すること、それはまさにこの世の社会を表しているのではないでしょうか。今、新型コロナウイルスによって多くの人々が苦しむ中、マスクやアルコールを転売して儲ける者、一時金といってお金をばらまくことで自分たちの地位を守ろうとする政治家、そしてそれを利用して人々をだましていく詐欺者たち。このように聖書の時代から2000年もたつ、現在ですが人間は何も成長していない、そしてそれは聖書の言葉が人間の本質を語っていることを意味しているのだと思います。

 また、この姿を見るときに、いったい誰が本当に支配されているのかも考えさせられます。もちろん女奴隷は主人たちに支配された立場にいました。しかしまた、この主人たちは、お金、富みに支配されているのです。そのような意味では、どちらもただ人間の欲望に支配されている姿をみるのです。

 

 私たちは一体何に支配されているでしょうか。

 これに対して、パウロの言葉、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」とは、福音による救いの言葉です。しかしこの福音による救いの出来事を社会は認めませんでした。自分のためだけに利益を追求する者にとって、キリストによる福音は迷惑でしかないのです。つまり、この社会、私たちが自分の欲望に支配されている時、福音は必要なものではなく、むしろ聞きたくない言葉なのです。

 この後福音を語る、パウロとシラスは捕らえられていきます。これがキリストに従って生きるときの、この世の反応です。私たちがこの世界で、何の問題もなく生きることができている時、自分が本当に神様に従っているのか考え直さなければならないのかもしれません。

 

2. 真の自由 

 パウロとシラスは女性を解放したことによって捕らえられました。そして、牢に入れられ、足には木の足かせをはめられたのです。パウロとシラスは肉体的自由を奪われました。しかし、心は自由でした。パウロとシラスは神様に従う者として心に自由を得ていたのです。二人は神様に賛美し、祈ったのです。「賛美」とは、神様への感謝であり、神様の栄光を歌うことです。パウロとシラスは、投獄され、むち打ちの刑を受けて、それでもどのような状況にあっても、神様が共にいて、守ってくださっていることを信じて賛美し祈ったのです。

 パウロとシラスは、投獄され肉体的自由を奪われました。時に、パワハラ・モラハラなど人は暴力によって心も支配しようとします。また暴力におびえる中では心の自由も奪われてしまうことがあるのです。しかしパウロとシラスは暴力に負けることなく自由な心をもって賛美したのです。この二人を見るときに、本当の自由ということ考えさせられます。

 

 自由とは何でしょうか。何にも支配されることなく、自分のしたいことがなんでもできるようになることでしょうか。それはただ自分の欲望に支配されているということなのではないでしょうか。パウロとシラスは神様を賛美し、祈りました。これは、神様に従う者の姿です。ローマ書ではこのように言われています。

 【知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。】(ローマの信徒への手紙6:16)

 私たちの心は、何かしらを心の土台として、何かを心において生きています。それが富なのか、権力なのか、人間なのか、罪なのか、それとも神様による愛、義なのか。神様の愛に支配されるとき、私たちは神様に従う神様の奴隷として、本当の自由を得ることができるのです。

 

3.主イエスを信じなさい。

 パウロとシラスが賛美しているとき、突然、大地震が起こりました。そしてすべての囚人の鎖が外されたのです。

 ここに賛美と祈りの力を見ることができます。囚人は冤罪でない限り、この世のルールを破り捕らえられた者たちです。様々な理由があると思いますが、囚人とされる人々の多くは、心に多くの傷を受け、社会のルールではその心をしばりつけておくことができなくなったため、牢屋に入れ鎖でしばりつけてあるのです。その縛り付けた鎖が、賛美と祈りによる働きによって、外されていったのです。

 それは、この囚人たちが囚われていた、何かしらの心の痛み、心の傷が癒されていったため、もはや鎖でしばりつけておく必要がなくなったと見ることができるのです。賛美と祈り。この神様から与えられている恵みの行為は、人の心を癒すのです。

 

 しかし、この状況を見た看守は自殺しようとしました。囚人たちが逃げてしまったと思い、そうなれば必ず殺される。許されるわけがないと考えたのでしょう。

 看守はパウロとシラスに「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(30)と聞きます。それに対して、二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(31)と教えるのです。

 「主イエスを信じる」。それは、主イエスによる神様の愛を受け入れるということ、神様を心の中心に置くことです。神様は、イエス・キリストをこの世界に送り、その命を捨ててまで、私たちの隣人となってくださったのです。これが神様の価値観、愛を土台とした生き方です。私たちは、イエス・キリストに従い、神様に仕える者として生きていきたいと思います。(笠井元)