今日はペンテコステ礼拝となります。私たちは約2ヶ月それぞれの場所で礼拝を持ちました。そして、今日から、また共に礼拝するときが与えられたのです。ペンテコステとは、人々が一つになって集まっていたところに、聖霊が降った時であります。このペンテコステの時を、皆さんと共に、心を合わせて迎えることができることを、心から神様に感謝したいと思います。
ペンテコステは聖霊がこの世界に降り、教会ができた教会誕生の日でもあります。聖霊というと様々な意味をもっています。「交わり」「導き」「とりなし」など様々な意味をもっていますが、今日はその中でも「希望」ということに目を向けてみていきたいと思います。
1: 夢を見る
今日のヨハネの黙示録は「夢を見る」文書と言われます。夢を見ることは、私たちが生きるために大きな力を与えることとなるのです。有名な言葉ですが、マーティン・ルーサー・キングは「I have a dream」「私には夢がある」と語りました。「私には夢がある。それはいつの日か、かつての奴隷の子どもたちと、かつての奴隷の主人の子どもたちが、兄弟のテーブルに一緒につくことができるだろう」と語り、そして、イザヤ書40章を引用し【40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。40:5 主の栄光がこうして現れる】と語りました。イザヤ書40章では今日の招詞の言葉、【40:31 主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。】とも語られています。
私の実家の壁には、このイザヤ書40:31の言葉が書かれているポスターが貼ってあり、私自身、挫折して、絶望する中で、何度も生きる勇気と希望を与えられた御言葉でもあります。「自分では越えることができない山を前にしたとき、神様が、その険しい道を平らにしてくださる。狭い道は広い谷としてくださる。自分が自分の力で生きてくことができないと絶望する中で、その生きる道を神様が整えてくださり、救いの道を開いてくださる。そして疲れたとしても、躓き、倒れたとしても、主に望みを置き続ければ、必ず新しい力を与えられる」と、励まされました。
聖霊によって、私たちには「夢」が与えられます。それは自分の力に囚われた、むなしい未来ではなく、神様の御業を信じて描くヴィジョンであり、神様の希望と励ましを与えて下さるのです。
2: 海はなくなった
今日の個所では、1節で、【21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。】と語ります。ここで言うところの「わたし」のことを、1章9節では【1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。】と言います。ヨハネは聖霊によって主イエスと結ばれていた、そしてだからこそ、困難の中にあっても、夢を見ることができたのです。
このヨハネが「新しい天と地がくるとき、海がなくなった」と語るのです。「海」とは、聖書では、「混沌」表します。秩序が乱されている状態であり、神と人とに敵対する力が働いている状態を表します。「もはや海はない」ということは、そのような信仰を脅かすもの、神様との関係を破壊する力が、もはやなくなったということを意味します。「もはや海はなくなった」そして「もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もなくなった」のです。
3: 条件なしに与えられている命の水
神様は6節からの箇所において、渇いている者には、「価なしに」つまり「条件なし」に、命の水を飲ませると教えます。神様の恵みはすべての者に与えられているのです。神様はこの混沌の世界にイエス・キリストを送ってくださったのです。イエス・キリストは私たちの涙をぬぐいとる者として、この世界に来られました。このイエス・キリストによる命の水を受け取るための条件は何もないのです。神様は無条件の救いの出来事を与えられたのです。私たちがなすべきことは、このイエス・キリストの愛が与えられる者となるために生きることではなく、イエス・キリストの愛を与えられた者として生きることなのです。
8節では「臆病な者、不信仰な者・・・そしてすべて嘘をいう者は第二の死を受ける」と言います。神様は「条件なし」にイエス・キリストを通して、すべての人間に愛を注がれているのです。しかし、それでも私たちが神様の愛を拒むとき、私たちの魂はカラカラに渇いてしまうのです。第二の死。それは神様の愛を拒み、心も魂も疲弊してしまっている状態を意味します。どれほど神様が人を愛しても、私たち人間がその愛を拒否し続けるとき、私たちの心はカラカラに渇いてしまうでしょう。
今、皆さんの心の中はどうでしょうか。神様の愛に満たされているでしょうか。それともその心は渇いているでしょうか。
4: 心を開かれる聖霊
多くの人間が、いつも神様に愛に満たされているよりも、心が渇いていることのほうが多いと思うのです。それが人間の弱さです。そしてだからこそ神様はそのような私たちに聖霊を送ってくださっているのです。私たちは神様の愛を拒んでしまうことばかりである。本当は、そのような心がカラカラに渇いている者こそが、神様の命の水を必要とする者なのです。そのことを神様は知ってくださり、私たちの心を開かれるために、聖霊を送ってくださったのです。私たちはこの聖霊の働きによって、命の水をいただく者とされていきたいと思います。聖霊が導く希望は、私たちを欺くことはない、失望に終わることはないのです。
私たちが生きるこの世界は「愛の世界」ではなく「混沌の世界」です。この「混沌の世界」にイエス・キリストは来られたのです。そして今も、私たちと共に涙を流し、共に悲しみ苦しんでくださっているのです。ここに私たちの希望があるのです。私たちは、絶望するときこそ、神様に目を向けましょう。聖霊の導きに委ねていきたいと思うのです。私たちは聖霊の働きによってイエス・キリストに結ばれ、未来に希望を見る者とされるのです。わたしたちは聖霊に導かれ、神様の愛に心を開かれた者として、生きていきましょう。【ローマの信徒への手紙5:1-5】(笠井元)