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2020.6.10 「素直に、熱心に、み言葉を受け入れる」 使徒言行録17:1-15

1.旧約聖書からの論証

 パウロたちはフィリピからアンフィポリス、アポロニアを経て、テサロニケに到着しました。テサロニケとはマケドニア州の第二区の首都とされる大都市でした。ここにはユダヤ人の会堂もあり、ユダヤの人も多く住んでいたようです。パウロは「いつものようにユダヤ人の集まっているところへ入って行き」(使17:3)ました。パウロはこれまで学んできましたように、伝道の地に到着したときにまずユダヤの人々、その会堂で話を始めたのでした。パウロは聖書を引用して論じ始めました。ここで「論じる」という言葉は「並び立てる」という意味で、聖書、つまり旧約聖書に記されていることを順序よく並び立て、聖書の言葉によって裏付けられた救いが起こされたことを語ったということです。

 イエス様もご自身が復活されたのち、エマオに向かって歩いていた二人と出会われた時に、聖書のみ言葉から教えられたのです。二人がイエス・キリストの十字架に絶望して、エルサレムからエマオに逃げ出しているとき、イエス様は「モーセとすべての預言者から初めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24:27)のでした。イエス様は、ご自身が聖書に記されている通りの出来事を成就した救い主であることを、聖書から教えられたのでした。

 パウロは聖書から「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」(使17:3)そして、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」(使17:3)と説明しました。パウロは、「イエスは十字架で苦しみを受けられ、死者の中から復活された。だからこそ、私はこのイエスを救い主・メシアを伝えている」と言うのです。とてもシンプルです。この言葉を聞いて、一部のユダヤ人は信じたのですが、別のユダヤ人は信じなかったのです。一つの言葉がすべての人を信仰に導くわけではないのです。同じ言葉を聞いても信じる人もいれば信じない人もいるのです。4節にありますが、ここでは、ユダヤ人ではありませんが、神をあがめるギリシア人、つまり異邦人もこの福音の言葉を聞いて神を信じたのです。(Ⅰコリント1:18-25参照)私たちもまず、聖書からみ言葉を聞いていきたいと思います。福音は、知恵や知識だけで理解するのではなく、信じることなのです。

 

2.ユダヤ人の反対運動

 パウロの福音伝道の業によって一部のユダヤ人と多くの異邦人が神を信じたのです。このことをユダヤ人は妬みました。ユダヤ人たちは妬み、暴動を起こしました。そして、パウロとシラスが泊まっていたとされるヤソンの家を襲ったのでした。(使17:5)しかし、パウロとシラスは見つかりません。そのためヤソンと数人の兄弟を捕まえて当局者のところに連れていき「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。」(使17:6)と叫んだのです。この言葉は口語訳では「天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます。」(使17:6)と「天下をかき回してきた人」とされています。ユダヤ人は、キリスト者とは世界中を騒がせ、天下をかき回し、この世をひっくり返すような人たちであると言うのです。このユダヤ人の言葉は完全に間違っているとは言えない言葉かもしれません。

 この世界が、神様に従わない社会として進もうとしている場合、私たちはその道を正すために働く必要があるのです。「自分たちさえよければ・・・」「弱い者小さい者は切り捨てる、見捨ててよい」という価値観が広がる時、そのような社会にあって、私たちがキリストの福音を伝えるということは、「天下をかき乱す」ことになるのかもしれません。キリストによる価値観とは小さい者、弱いものと共に生きるという道です。ここに神の愛が現されるのです。そのような意味で、時に「それは間違っている」という言葉を投げかけなければならないし、その時に、キリスト者は社会をかき乱す者となるでしょう。

 このとき、社会をかき乱した理由は「皇帝の勅令に背いて『イエスという別の王がいる』と言っている」ということでした。皇帝を神として、皇帝の命令を絶対とするローマ帝国において、「別の王がいる」「別の方に従う」ということは、勅令に逆らうことでもありました。

 イエスをキリスト・救い主と信じることは、神を神として生きることであり、その神様の価値観に生きることになります。それは、時に、さまざまなものをかき乱し、ひっくり返すことになります。社会という広範囲だけではなく、私たちは、時には自分の心の中にある神様に反対する心と戦う、これが神の福音の御業なのです。

 

3.素直に、熱心にみ言葉を受け入れる

 パウロとシラスはテサロニケで迫害を受けベレアに送り出されました。ベレアに到着するとユダヤ人の会堂に向かいました。ここでもパウロとシラスは福音を宣べ伝え始めたのでした。パウロとシラスは迫害の中で、自分の身の安全を考えるのではなく、福音を宣べ伝えたのです。このパウロの言葉を聞いたベレアの人々は、非常に熱心にみ言葉を受け入れ、毎日聖書を調べたのです。(使17:11)ベレアのユダヤ人は素直でした。素直であること。それは偏見を持たず、自分の考えを絶対化せず、他者の考えを受け入れることです。素直な心、柔らかい心でいることはとても大切なことです。

 ベレアの人々は、「素直に」そして「熱心に」神様のみ言葉を受け入れたのです。「素直に」そして「熱心に」パウロの言葉、福音のみ言葉を聞くベレアの人々は、今度は毎日このパウロの言葉が正しいのか、聖書を調べたのでした。

 

パウロはテサロニケで教えたように、聖書に記されているように、メシアは苦しみを受け、死者の中から復活される、そのメシアがイエス・キリストであると教えたのでしょう。ベレアの人々は、これが正しいのか、調べたのでしょう。その結果12節にありますように、【そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。】(使17:12)のでした。素直に」、「熱心に」聞き、その通りかどうか調べた結果、人々は、多くの人々が、福音を信じたのでした。ここに聖書に向き合う姿勢を教えられます。私たちも、このように、聖書のみ言葉を素直に、心を柔らかく、そして熱心に聞いていきましょう。(笠井元)