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2020.6.24 「復活を語ること、復活を信じること」 使徒言行録17:16-34

1.アテネでの宣教 16-21

 パウロたちはテサロニケで伝道をしました。しかしパウロたちをねたむユダヤ人たちが暴動を起こしたのです。そのためパウロたちは場所を移し、今度はベレアで伝道をしました。ベレアの人々は、素直で非常に熱心にみ言葉を受け入れたのでした。しかし、このベレアにもテサロニケのユダヤ人がやってきて、群衆を扇動し、騒ぎを起こしたのです。そのためパウロはアテネまで来たのです。

 アテネは世界の芸術と文化、学問の中心地でした。ここにはパルテノン神殿など多くの彫刻がありました。このアテネにパウロがやってきたのです。

 パウロはこれらの芸術を見て、心を動かされ感動するのではなく、これらを「偶像」としてみたのです。もともとパウロはユダヤ人のファリサイ派として熱烈な信仰を持って、唯一なる神様を信じていたので、当然の反応です。

 パウロはこのアテネの芸術品を「偶像」として認識し、憤慨したのでした。ただパウロは怒りに任せて偶像を破壊したりするのではなく、ユダヤ人や神をあがめる人々と、そして広場で居合わせた人々と論じあったのでした。またエピクロス派、ストア派という、当時のギリシアのる哲学としての二つの大きな流れの人々とも討論をしたのです。

 21節【すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。】(21)つまり、人々はパウロの福音宣教の言葉を、何か新しいことを言っている言葉として、暇つぶしとして聞いたのでした。

 人間の求めるものには、いわゆる流行がありブームがあります。好奇心・探求心から「新しいもの」を求めることもあります。また、古いものに対する執着心、言い方を変えると伝統を大切にする心もあります。この両方の思いが、私たちにはあるのです。

 

 アテネの人々はとにかく新しいものを求めていました。そしてパウロの語る福音の言葉も、その新しい考えの一つとして捉えていたのです。

 パウロの語る福音の言葉はある意味「本当の新しいもの」と言うこともできます。それはただ時間として新しいというだけではなく、古くなることのない、時間によって変わることはなく、いつも、どのようなときでも新しいものとされる、神のみ言葉です。パウロは、【イエスと復活について福音を告げ知らせていた】(18)とされます。イエスの復活は新しい命を意味します。人間が新しく造り変えられる出来事なのです。

 

 

 

2. 創造主なる神 22-29

 

ここでパウロは怒りの中で相手をけなすのではなく、まずアテネの人々が持つ、その探求心から「信仰のあつい方」として認めたのです。 

これまでパウロがユダヤ人に向けて語るときは、その旧約聖書に記されているメシアが十字架で殺され、三日後に復活されたイエスであると語りました。しかし、ここで語るのはそのような土台のある人々ではありませんでした。そのためパウロは、アテネの人々がもつ、何かを求める思いに語ったのです。そしてそれは人間ならば誰でもが感じることがある、自分たちを超えた力の存在、それを「世界の創造者としての神様」として語ったのでした。

神様は、この世界を造られた。だからそのような神様が、人間の造った神殿などに住むわけがなく、また、人間が造った金、銀、石などの像などと一緒にするものではないのです。すべての人を造り、命を養われているのです。

26節では「季節を決める方」「居住地の境界を切られる方」とします。これは時間の流れを意味します。つまり命の誕生から死を支配される方である神様を語っているのです。

世界を造る神、それは、野の花、空の鳥の命を造られる方です。それらは生まれ、育ち、そして朽ちていきます。これがこの世の命です。そのような自然の生命に触れる中からも私たちは神様の存在を感じることができるのです。パウロはここでまず、そのような神様がおられること、創造主について語ったのでした。

3. 復活 悔い改めるように 30-34

創造主としての神様についてだけであれば、パウロの言葉を素直に受け入れる人がもっといたかもしれません。しかし、続けて、パウロは、ここから神様による死者の復活について語り始めたのです。(30~32節) 

創造主なる神様は、命の流れを超えて働かれた。誰でも理解できる自然の流れを超えて働かれたのです。それが復活です。しかし、復活と聞くと、ある者は笑い、ある者は「またいずれ・・・」と去っていったのでした。このアテネの人々は、新しいものを求め、知識と知恵、芸術、文化といった様々なものを求めていました。しかしそれはあくまでも人間の理性の範囲内のことで、自分たち人間の理性で考えられることを、どれだけ引き出せるかといったことを求めていたのです。

人間の持つ範囲での知識と知恵というものがすべてだ、つまり自分がすべてを理解できると考えている以上は、本当の神様を受け入れることはできない、それは、人間が自分の理性を偶像化しているということです。復活という人間の考えを超えた働きをされた神様を信じるためには、まず自分の不完全さを受け入れる必要があるのです。

また、パウロが語った復活とは、「神様はなんでもできるのです・・・人間を超えた力を持っているのです」ということだけではなく、そこに「悔い改め」(31)が必要であることと「正しい裁き」が与えられることを教えているのです。

神様はイエス・キリストを復活させられました。それはすべての者が「悔い改めるように」と教えておられるのです。悔い改めとは、これまでの自分の生き方、ここでいえば人間の常識がすべてであり、自分がすべてだと信じ切っていることから、神様の存在を受け入れる者となること、自分を超え、しかも自分を愛し、自分のために死に、新しい命を与えられたということを受け入れていくことです。

アテネの中では、ほとんどの人が自分の理性を一番として、そこから変えられることはなかったのです。ただ、信仰に入った人もいました。アレオパゴスの議員ディオニシオやダマリスという女性でした。これら少数ですが自分の常識を超えた方、世界の造り主、そして復活を信じる人々もいました。

神様は「悔い改めなさい」と言われます。私たちは日々自分と向き合い、自分のために死なれ復活された方を受け入れていきましょう。(笠井元)