1: 御言葉を教え、学ぶ
今日の個所について、まずこの箇所が記された、時代背景を説明したいと思います。イスラエルはサウルから王政が始まり、ダビデへと続きました。ただ、ダビデの子ソロモンの死後、国は二つに分裂し、北イスラエルと南ユダという国に分かれたのです。その後、北イスラエルはアッシリアに、そして南ユダはバビロニアに滅ぼされていったのです。バビロニアに滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロニアに連れて行かれたことを「バビロン捕囚」といいます。イスラエルの人々は、このバビロン捕囚の時に、エルサレム神殿は崩壊され、信仰のシンボルを失うなかで、律法を心の中心に置くことで、信仰を守っていったのです。
今日の個所は、その後、バビロン捕囚から解放された時の言葉とされます。イスラエルが、バビロニアから解放されたといっても、今度はバビロニアを滅ぼしたペルシャの支配下にあったのです。人々は、このペルシャの支配下にあって、どのように信仰を守ることができるかを考えました。
そして、その一つの答えとして、「教育」があったのです。ユダヤの民として神に従い生きていく、その生き方の基礎を教えるということです。そしてそのために語られた言葉の一つが、今日の言葉となるのです。【3:1 わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。3:2 そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう。】(箴言3:1-2)
わたしたちは、イエス・キリストを長男とした、神の子であります。また、同時にイエス・キリストが教師であり、わたしたちはその生徒でもあります。私たちは父なる神様の教え、子なるキリストの言葉として、今日の御言葉を素直に受け取っていきたいと思うのです。
2: 慈しみとまこと
聖書は3節でこのように言います。【3:3 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。】ここでの「慈しみ」という言葉はヘブライ語で「ヘセド」という言葉で、「憐れみ」「恵み」「愛」と翻訳される言葉です。別の個所ではこのような言葉としても使われています。ホセア書ですが、【6:6 わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。】(ホセア6:6)ここでの「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではない」という言葉の「愛」も同じ「ヘセド」という言葉となります。私たちが学ぶべきこと、それは「神様は私たちを『ヘセド』、つまり慈しみ、愛してくださっているということです。神様はどのようないけにえよりも、この神様の愛を素直に受け取り、愛を中心に生きることを喜ばれるのです。「神様が私たちを愛してくださっている」。これが、キリスト教として聖書から何かを学ぶときの大前提です。神様が私たちを愛してくださっているのです。
そして、ここではこの「慈しみ」に「まこと」という言葉が続きます。この「まこと」とはヘブライ語では「エメト」という言葉になり、この「ヘセド」と「エメト」は多くの場所でセットとなって語られています。神様の慈しみ、そして神様のまこと「真実」は変わることがないのです。
この慈しみと真実は、新約聖書のヨハネによる福音書ではこのように言われます。【1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。】(ヨハネ1:17)
神様の変わることのない愛と真理はイエス・キリストを通して現わされたのです。神様の変わることのない慈しみと真実。それはこのイエス・キリストに示されたように、神である方が、私たちを見捨てることなく、むしろ自分を捨ててまでも、愛された。そして私たちの重荷を背負い、そして共に生きてくださるということなのです。主が共におられる。ここに神様の愛が現わされているのです。
3: 主が道をまっすぐにしてくださる
そして神様は【3:6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。】(6)と言われます。主を覚え、その道を歩くとき、主は、その道筋をまっすぐにしてくださるのです。神様の目からすれば、私たちは、あっちにそれて、こっちにずれてと、まっすぐに進むことなどできるわけがないのです。
「主が道筋をまっすぐにしてくださる」。それは、神様が私たちに「まっすぐに歩きなさい」と命令されているのではありません。「神様が自ら、私たちの歩く道をまっすぐに整えてくださる」のです。それは私たちがどれほど右に左にとそれていったとしても、その道を、真実なる方、イエス・キリストが共に歩んでくださるということです。
私たちは今、この神様の愛を心の中にいただきたいと思います。聖書は「わたしの戒めを心に納めよ」「心の中の板に書き記すがよい」と言います。心に書き記すこと。それは、私たちの思いの中心に、この神様の愛をいただくことです。神様に愛されている者として、自分に何ができるのか。自分がどのように生きることが「神の愛を頂いた者」となるのか考えてみたいと思います。
私たち人間が神様の愛を受けて生きる道、それはそれぞれに違う賜物が与えられているように、それぞれに違う道となります。みんながみんな同じ道を歩くことが、「正解」なのではないのです。ただ「自分の分別に頼ることなく、神様に信頼して歩む」ときそこに神様の愛を受けた道が現わされていくのだと思います。私たちは、この神様の愛を忘れることなく、自分がどのようにいきることができるのか、考え、歩んでいきたいと思います。(笠井元)