1: 御言葉を教え、学ぶ
イスラエルはダビデの子ソロモンの死後、国は二つに分裂し、北イスラエルはアッシリアに、そして南ユダはバビロニアに滅ぼされていったのです。バビロニアに滅ぼされ、多くの人々が捕囚としてバビロニアに連れて行かれたことを「バビロン捕囚」といいます。今日の個所はバビロン捕囚から解放された時の言葉とされます。イスラエルは、バビロニアから解放されたといっても、今度はバビロニアを滅ぼしたペルシャの支配下にあったのです。人々は、このペルシャの支配下にあって、どのように信仰を守ることができるかを考えました。その一つの答えとして、「教育」があったのです。
2: 慈しみとまこと
「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。」(3)「慈しみ」という言葉はヘブライ語で「ヘセド」という言葉で、「憐れみ」「恵み」「愛」と翻訳される言葉です。ホセア書では「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではない」と語りますが、神様はどのようないけにえよりも、神様の愛を素直に受け取り、愛を中心に生きることを喜ばれるのです。
「まこと」とはヘブライ語では「エメト」という言葉になり、この「ヘセド」と「エメト」は多くの場所でセットとなって語られています。
慈しみと真実は、ヨハネによる福音書では「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(ヨハネ1:17)と語ります。神様の変わることのない愛と真理はイエス・キリストを通して現れたのです。
3: 主が道をまっすぐにしてくださる
主を覚え歩くとき、主はその道筋をまっすぐにしてくださるのです。それは、神様が私たちに「まっすぐに歩きなさい」と命令されているのではありません。私たちがどれほど右に左にとそれていったとしても、その道を、真実なる方イエス・キリストが共に歩んでくださるということです。イエス・キリストが共におられる道、それこそまっすぐな道となるのです。
私たちは今、この神様の愛を心の中にいただきたいと思います。「わたしの戒めを心に納めよ」「心の中の板に書き記すがよい」と言います。心に書き記すこととは、私たちの思いの中心に、神様の愛をいただくことです。私たちは神様の愛を心に受けて生きるときに、自分がどのように生きることができるのか考えていきましょう。(笠井元)