1: 迷い出た一匹の羊を愛する羊飼い
一匹の羊とは牧者についていく多くの羊の群れの中、一匹だけついていくことができなかった、または、ついていかなかった羊です。人間でいえば、弱く、道に迷い、歩くべき道を歩くことができなかった。または自ら歩く道から外れていってしまった者ともいえるでしょう。勘違いしてはいけないのは、ここでは一匹と九十九匹を比べて一匹のほうが大切だと言っているのではないのです。
聖書が教えているのは、すべての人間が一匹の羊であり、そのような自分を神様は大切にされているのです。神様はあなたを愛しているのです。
2: わたしたちは一匹の羊である
一匹の羊、小さい者とは、私たちすべての人間を意味します。わたしたちには必ず欠点があります。そのはずですが、私たちは「できる人」と「できない人」と分けていきます。しかし、本来は、だれもが必ず欠点があるのです。だから間違えてはいけないのは、「弱さ」や「欠点」があるといって、わたしたちは他者を羨んだり、自分のことを卑下して、自己否定する必要もないのです。神様は、どの様な者であっても同じように愛して、どこにいたとしても探しに来てくださるのです。私たちの弱さは、神様の愛と慈しみを受け入れるために必要なものなのです。
3: 小さな者となる
「自分は弱くはない」と考えているとき、神様の愛が入るところがなくなってしまうのです。神様の愛が水のように注がれているとしても、満タンに別のものが入っていれば、愛の水は入ることはできないのです。私たちの弱さは神様の愛が注がれる大切な場所なのです。
「躓きは避けられない、しかし躓きをもたらすものは不幸である」(7)と教えます。人間を躓かせる心とは「自分には神様の愛は必要ない」とする「傲慢」という心です。
神様は「私があなたを愛しています。あなたがどこにいても、どれほど迷い疲れ、悩み、苦しみのなかにあったとしても、私が必ずあなたを見つけ出す。私があなたを救い出す。だからただ私を待ち望みなさい。」と言われているのです。そのために、神様はイエス・キリストを私たちのところに送ってくださった。神であるキリストが、人間という弱さを持つ者となられたのです。このことにより、神様は、私たちを必ず探し出してくださる者となられたのです。(笠井元)