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2020.7.19 「裁き合うのではなく、赦し合うために」(全文) マタイによる福音書18:15-20

1:  裁き合うのではなく赦し合う

 今日の箇所は、新共同訳聖書の小見出しでは「兄弟の忠告」となっており、また内容を見てみても、「罪人への裁きの言葉」として聞こえてくるのではないでしょうか。しかし、今日の御言葉が教えているのは「裁きあうための言葉」ではなく、「赦し合うための言葉」です。まず大前提として、私たち人間はすべての者が、罪人であるということを覚えたいと思います。「あなたは罪人です」と言われてうれしい人はいないと思います。ただ、自分が罪人であると認識することはとても大切なことなのです。「自分は正しく間違っていない」と思っているときには、神様の愛を必要とはしないのです。自分を罪人だと認めること。自分の弱さによって挫折をすること。それは神様の愛を必要とする道の入り口であり、神様に赦されて生きていることを知ることになるのです。私たちは罪人である。だからこそ、すべての人間が、神様に赦されて生かされていくことを、きちんと受け入れる必要があるのです。そして、だからこそ、ここでは、「裁きあう」ことではなく「赦しあう」ことを教えているのです。

 皆さんは隣人の罪、間違いを見つけたときに、きちんと忠告することができるでしょうか。私は、他者に忠告することはとても苦手です。一つには自分自身が正しく生きているわけではないという思いが強くあること、もう一つは忠告することで、その人に嫌われることが怖いからだと思います。

 また、特に現代は超個人主義といわれ人間関係が断絶している社会です。「自分のことは自分のこと、他のだれにも関係がない」、すべては「自己責任だ」という考えにあるのです。だから、誰かが間違った道を進んでいたとしても、「私には関係ない」と思ってしまうのです。このように考える私たちに、聖書は「兄弟に忠告しなさい」と教えているのです。つまり、「他者の罪を他人事とするのではなく、自分のこととして考え、そこから神様に立ち返るように、神様に愛されている、赦されていることを伝え、共に生きて、互いに励ます関係を持ちなさい」と教えているのです。

 聖書は、一節前の14節にあるように【そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。】(18:14)と教えているのです。神様が求めていることは、罪人が、裁かれ、滅びることではありません。「赦し合い、愛し合い、共に生きていきなさい」。これが今日の聖書箇所の中心点です。

 

2:  傲慢という罪

 ここでは、兄弟が罪を犯したらならば、まず、二人のところで、そしてそれでも聞き入れなければ、一人か二人を連れて、それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさいと教えます。続けて、それでも聞き入れなければ、異邦人か徴税人と同様に見なしなさいとあります。人間が自分の「罪」を受け入れなければ、どこまでいっても神様の愛、本当の救いに気が付くことができないのです。自分は絶対に正しいと思う者は救いから外れてしまっている。それは神様の裁きによって、または他の誰かの裁きによって、救いから外されたのではなく、自分自身で、神様の救いから離れて、出て行ってしまっている者なのです。

 教会は、歴史の中で多くの罪を犯してきました。それは特に、自分たち教会の権威や秩序、そして聖書理解を守ろうとしたときに間違い、罪を犯してきたのでもあります。プロテスタント教会、そしてバプテスト教会も、少数派の時は異端者とされ迫害を受けたのです。しかしまた、そのバプテスト教会も大きな勢力、多数派となると、今度は逆に「自分たちが正しい」という立場に立つようになり、他者を裁く者となってしまったという歴史があります。私自身、だれかとケンカをするときには、たいてい「自分は正しく、あなたが間違っている」という考えのうちに立っています。そして、それは、自分のほうが強い立場にある時、例えば、親が子どもに、先生が生徒にと、そのような時には特に多く犯してしまうことなのです。

 他者を裁く罪。その中心にあるのは「傲慢」と「自己絶対化」です。この「傲慢」と「自己絶対化」という罪は、自分は正しいとして、他者を断罪し、人間関係を破壊してしまうのです。私たちは、どのような立場にあっても、謙虚で、従順である必要がある。他者の意見をきちんと聞き、受け入れ、自分の道が間違っていれば、修正していく必要があるのです。

 

3:  神の国を表す場所としての教会

 イエス様は、【あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。】(18:18)と言われました。これは16章においてペトロがイエス様を「生ける神の子、救い主」と信仰を告白したときに、イエス様がペトロに向けてこの言葉を言われたのです。そのペトロへの言葉が、ここでは「あなたがた」となり、「教会」に言われた言葉となっているのです。先ほどは歴史の中での教会の罪、人を断罪してしまうという間違えの話をしましたが、それは教会が必要ないものであったり、人間の罪の集まりを見ることでしかない、ということではないのです。

 教会は、確かに、神の国を表す場所であるのです。神の国は神様の愛によって支配されている場所です。教会は、この神様の愛による支配を垣間見ることができるところなのです。20節では【二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。】(18:20)と言いますが、教会とは、まさにイエス・キリストの名によって、二人、三人と、そして何人もの人が集まる場所であり、ここに、神様の愛を見ることができるのです。そしてそれは、教会には、神様の愛を表すという責任があるということでもあります。

 神の愛を垣間見る場所。それは、罪ある者がお互いを裁くのではなく、神様に赦されている者として、赦し合う場所ということです。私たち教会は、それぞれが弱い者であるとし、お互いの間違い、お互いの弱さを受け入れていく関係にあります。そこに神の国、神様の愛の支配の場所を垣間見ることができるのです。

 

4:  心を一つにして

 今日の19節でこのように言います。【また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。】(18:19)私たちが神の国を表す教会となるために、心を一つにして求めるように言われています。

 ここでは、「どんな願いであれ」とありますが、教会が求めるべきことは、お互いを愛し合い、赦しあい生きる世界の到来。神の国の到来を願い求めたいと思うのです。

 現在は、新型コロナウイルスによって、世界中が混乱に陥っています。祈祷会では、「国家・社会が正しい判断をすることができるように」と願い祈っています。しかし、ある政治家は「風邪と変わらない」と言い、また信じられないようなキャンペーンを行うなど、理解に苦しむ判断ばかりをしているのです。ニュースを聞いていると、生きていることに絶望してしまいます。

 しかし、そのような時だからこそ、私たちは教会として心を一つにして、ここに「神の国が来ますように」と、祈り求めていきたいと思うのです。私たちが心を一つにして、神様に求める時、そこにイエス・キリストが必ず働いてくださるのです。ここに、希望があります。私たちはキリスト者として、今、見えている現実に絶望する時、必ず神の国が来られるという希望を見ていきましょう。心を一つにして求めるならば、天の父はそれをかなえてくださるのです。私たちは、心を一つにして祈り、ただ信じて、神様のみに仕え、歩んでいきたいと思います。(笠井元)