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2020.7.22 「神の御心」 使徒言行録18:12-22

1. 神のみ言葉の成就

 12節からの箇所でパウロたちはユダヤ人たちに襲われ、ガリオンというローマの地方総督の前に引き立てられていきました。ガリオンの前にパウロが引き立てられたことは、パウロの生涯の年代を決定する大きな役割を果たしています。ガリオンは紀元51年5月から52年までの一年間アカイア州の総督でした。この期間にパウロは11節にあるように「一年六か月」コリントに滞在していたのでした。この箇所はパウロがいつどこで宣教活動をしていたのかを理解するのにとても重要な意味をもつのです。

 ガリオンはパウロに対する告発はユダヤ教内部の問題であると判断し、「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」(18:4-5)として告発を受理しませんでした。

 ここから神様のみ言葉が信頼できるものであり、その預言は成就することを見ることができるのです。パウロはこの箇所の前においてユダヤ人の強い反発を受けていました。6節では「ユダヤ人が反抗し、口汚くののしった」ともあります。しかしそのような中で、神様が「語り続けよ」と励まされました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(18:9-10

 実際にユダヤ人に引き立てられ、ローマ総督の前に立たされた時にも、ローマ総督ガリオンは、神様はみ言葉通り、パウロを傷つけさせはしなかったのです。ここに神様の御言葉は成就するのです。神様は幻の中でパウロに語り掛け、励まし、そしてその言葉の通り、共にいてくださり守ってくださったのです。

 

2.ケンクレアイで髪をそり落とした

 18節でパウロが誓願を立てていたため髪をそり落としたことが記されています。これはナジル人の誓願と考えられました。ナジル人の誓願とは民数記6:2-5に記されていて、士師記に登場するサムソンが有名です。

 ただ、民数記では【6:13 ナジル人についての指示は次のとおりである。ナジル人である期間が満ちた日に、彼を臨在の幕屋の入り口に連れて来る。・・・・6:18 ナジル人は臨在の幕屋の入り口で献身のしるしである髪をそり、それを取って和解の献げ物を焼く火に燃やす。】(6:13,18)と、ナジル人としての誓願が果たされたときには、民数記の時代の臨在の幕屋、パウロの時代ではエルサレム神殿において、髪を剃るものとされていました。

 そのため律法を忠実に守るパウロが、エルサレムではなくケンクレアイで髪をそったことからこれはナジル人の誓願ではないとも考えられています。また、この時の誓願が、コリントでの伝道が守られるための誓願だったのか、第二回宣教旅行全体のことであったのか、その目的もはっきりしていません。

 どちらにしても、パウロは神様に願い、その願いが果たされた。そのために感謝のしるしとして髪をそり落としたとみるならば、一年半のコリントでの宣教が神様のみ言葉通りに守られたことを感謝した行為として読むことができるのです。

 

3. エフェソでの伝道と出発

 このあとパウロたちはエフェソに到着します。パウロはまずユダヤの会堂に入り、ユダヤ人と論じあったのです。エフェソでのユダヤ人の反応は「人々はもうしばらく滞在するように願った」(20)とあるように、福音の言葉を受け入れるという反応でした。エフェソとは、16章にあるように、もともとパウロが行きたかった場所でした。しかしパウロはエフェソに行こうとしたところを聖霊によって阻まれたのでした。パウロの願いがここで叶うのです。しかも、ここでのユダヤ人の反応はこれまでの多くの場所とは違い、受け入れられ、「もう少しここにいてください」とお願いされたのでした。

 そのような中で、パウロは「神の御心ならば、また戻って来ます」(21)と言い、エフェソを発ったのです。パウロは自分の願いが叶えられ、しかもその反応はとてもよかった中で、「神の御心」を求めたのでした。パウロは今、ここにいることが神様の御心ではないと判断したのです。

 

4. 教会への挨拶

 パウロはエフェソにいるのではなく、教会に挨拶をするためエルサレムへと上り、そしてアンティオキアに下ったのでした。神様の御心と信じて、エフェソに留まらず、エルサレム教会、そしてアンティオキアの教会に挨拶に行き、報告をしたのでした。エルサレムに来た理由はいくつか考えられますが、ここに記されているのは「教会に挨拶をするため」(22)とあるのです。

 パウロは教会に挨拶をするためにエルサレム教会、そしてアンティオキア教会に向かったのです。パウロの伝道は「行きたい」という個人的な思いだけではなく、教会に派遣され、教会の代表として、教会の業として、伝道旅行に出かけたのでした。つまり、様々な場所でのパウロの伝道は、エルサレム教会、アンティオキア教会の、教会としての業であったのです。パウロは自分を派遣し祈り支えてくださっている教会に挨拶に向かったのです。

 私たちも教会という信仰共同体につながり、教会としての歩みの大切さを学びたいと思います。私たちの信仰は決して一人の人間、自分だけのものではないのです。祈り、祈られて信仰が支えられていることを覚えたいと思います。4月、5月と新型コロナウイルスによって、共に礼拝することができませんでした。そのときに、いろいろな方法をもって、お互いが一つの教会につながる兄弟姉妹であることを確認することができました。私たちは、教会として共に祈り、神様の御心を求めて歩んでいきたいと思います。(笠井元)