パウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」と言います。人間生きている限り、悲しみがあり、痛みもあることでしょう。それがどのような悲しみであるか、深いか、浅いか、それがどのような痛みであるか、大きなものなのか小さいものなのか、絶え間ない痛みであるか、時々うずくのかは個人差があることでしょう。
1.パウロの悲しみ、痛みの原因 イエスを拒否する人たちの問題
「ユダヤ人問題」の発端は、イエス様もパウロもユダヤ人でありながら、当のユダヤ人がイエス様の福音、つまり、人は一方な神の愛によって救われるという福音を拒んでしまったことにありました。ユダヤ人問題は、重要な問題ですが、一般的な言葉に直せば、愛する人がイエス・キリストの愛を、素晴らしい知らせを拒んで受け入れてくれない、それに対して神もそのような人にソッポを向くのかということであるかも知れません。あるいは、なぜ、神は選びの民を助けてくれないのだ!という叫びです。
パウロは、ローマ8:31以下で、キリストの愛を謳いあげています。しかし、その舌の根が乾かないうちに、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」というのです。考えてみると、「自分が救われることに拘っているようではだめだ」ということ、考えてみれば、そのような願いは究極の我がままではないでしょうか。誤解のないように言えばキリストに替わって他者のために苦しみ、悩むなどということは全く不可能です。それを大前提としながら、それでも、愛する同胞のためなら、愛するあの人のためなら、キリストから離されても構わないと思う、そのような自由な不自由さの境地で生きるというのがパウロの信仰であり、情熱です。
ユダヤ人がイエス様を拒んだ。しかし、パウロは、そのユダヤ人たちを責めたり、自分の不甲斐なさを責めたりせずに、そうだ、替わりに私の愛と奉仕を必要とする人たちがいる。その人たちに仕えよう。「異邦人」に向かおう。すると、「何んだ、あんな仕様もない人たちが神の恵みによって義(正しい)とされるのか、それでは自分で頑張るのをやめよう」という嫉妬心をユダヤ人に起こさせる。神様が「道草」をするというのか、「回り道」をされて忍耐しておられる。神がユダヤ人を頑なにされたのなら、神はイスラエルに信仰を与えることができるというのです。そうであれば、愛の神を讃美しながら、小さな働きでも、私たちを必要とする私たちの「異邦人」に仕えることが出来るかも知れません。(松見俊)