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2020.7.26 「キリストから見捨てられようとも」(全文) ローマの信徒への手紙8:35-9:3

 使パウロは、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」と言います。人間生きている限り、悲しみがあり、痛みもあることでしょう。それがどのような悲しみであるか、深いか、浅いか、それがどのような痛みであるか、大きなものなのか小さいものなのか、絶え間ない痛みであるか、時々うずくのかは個人差があることでしょう。新型コロナウイルスの感染の問題に加えて、水害が追い打ちをかけています。身近な久留米、大牟田、そして、それぞれの肉親たち、知人たちの顔が浮びます。ある農民は「これで3年連続、あるいは、4年連続で作物が水浸しです。心が折れてしまいます。」と語っていました。そして、政治世界の「迷走?」としか言い得ないような実際があります。医療体制や経済の破綻の問題もあるでしょう。それぞれ、個人差はあり、個人的事情があり、傷つき方は違いますが、悲しみがあり、心に痛みがある、この事実は皆さんと分かち合えることでしょう。具体的なことに触れ、説明する必要もありません。むろん、私たちの仲間から先日鶴見健太郎さんが、召されたことに覚えずにはおられません。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」

 

1.パウロの悲しみ、痛みの原因 イエスを拒否する人たちの問題

 パウロの心の内を覗いてみましょう。彼は何を悲しみ、何に痛んでいたのでしょうか。彼の同胞のユダヤ人たちの大半が、イエス・キリストを拒絶したということに対してです。9章からは、クリスチャンがこの世界、歴史の現実の中でどのように生きたらよいのかがテーマになり、最初に、いわゆる「ユダヤ人問題」が扱われています。日本社会ではユダヤ人の問題はそう大きな問題ではないかも知れません。何年か前、幾つかの図書館でアンネ・フランクの書いた「アンネの日記」という本の頁が破られたり、いたずら書きをされたことがありました。アンネは、ナチス・ドイツの迫害を逃れ、隠れ家に住んでいた一人のユダヤ人の少女です。私は連れ合いと一緒に、アンネの亡命先のアムステルダムの彼女の小さな部屋に行ったことがあります。彼女の日記が破られることのあったその時期、私はユダヤ教のラビ・マゴネット先生と一緒に自動車に乗っていたのですが、私が「ご免なさい」というと、ただ微笑んでおられました。人間にひそむ「差別」意識は根深いものです。ユダヤ人は現在でも金融界や芸能界、学術界で力を持っていますので、日本でも「ユダヤ人陰謀説」がときどき燻(くすぶ)っています。ナチス・ドイツが約600万人のユダヤ人を殺戮し、また、2千年近く差別してきましたから、欧米キリスト教界では「ユダヤ人問題」は大問題です。また、現在ではパレスチナでのアラブ人とユダヤ人の間の傷の深い葛藤があることはご存知の方もあるでしょう。

 キリスト教の歴史ではその発端は、イエス様もパウロもユダヤ人でありながら、当のユダヤ人がイエス様の福音、つまり、人は一方な神の愛によって救われるという福音を拒んでしまったことにありました。9:30では「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人(異邦人とは私たちのことです!)が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです」と言っています。ユダヤ人の問題は、今朝は、これ以上深く考えません。一般的な言葉に直せば、愛する人がイエス・キリストの愛を、素晴らしい知らせを拒んで受け入れてくれない、それに対して神もそのような人にソッポを向くのかということであるかも知れません。人口の99%はイエス様を信じない日本文化の中に生きている私たちですからこれは身近な問題でしょう。クリスチャンである私たちは、イエス・キリストを拒む人たち、よりによって私たちの愛する人たちの拒絶に直面してどうしたらよいかということかも知れません。あるいは、神様が選んで下さった人をどうして助けてくれないのだという叫びかも知れません。

 

2.キリストの愛 神の義と愛の貫徹

 ここで、話を少し、キリストの愛に移してみましょう。実は、聖書本文は、8章とか9章とか分かれていないのですが、ただ便宜的に8章、9章となっているので、パウロの深い悲しみや絶え間のない痛みが分かりにくくなっています。そこで今朝は8:35から敢えて読んでいただいたわけです。8:35以下パウロはキリストの愛を謳いあげています。もうこれは手紙というか、讃美歌、頌栄です。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ/屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から引き離すことができないのです。」パウロはこのようにキリストの愛を謳いあげていますが、その舌の根が乾かないうちに、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」というのです。この翻訳は、品のある翻訳ですが、原文は、「キリストから(切り離されて)、私自身、呪い(アナテマ)に生きる、呪いにあることを願う」というのです。この男どこか頭が狂っているのでしょうか?!「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と言っておきながら、「キリストから切り離されて、私自身呪いに生きる、呪いにあることを願う」というのです。そこで、今日の説教の題を「キリストから見捨てられようとも」としました。メッセージとして言いたいことは、「自分が救われることに拘っているようではだめだ」ということです。人間にとって一番の関心事は「自分が救われることである」と考えるかも知れません。しかし、その願いは究極の我がままではないでしょうか。「まだ、自分に拘っているのですか?!」と問われているのではないかと思います。キリストの愛に生きることは、自分が救われるか、自分がどうこうではなく、愛する人のためなら、「キリストから切り離されて、私自身呪いに生きる、呪いにあることを願う」と思えるほど、つまり、自分の救いへの頓着から解放されることなのです。まあ、誤解のないように言いますが、キリストに替わって他者のために苦しみ、悩むなどということは全く不可能です。「願う」と翻訳されていますが、ēuchomēn 未完了過去形といって、過去の継続的動作で、過去のある時点まで継続的にそう願っていたという意味です。不可能な可能性というか、実現されない願望、I could wish キリストから見捨てられることなどあり得ないのだけど、ということを前提としているわけです。それを大前提として、それでも、愛する同胞のためなら、愛するあの人のためなら、呪われて、見捨てられても構わないと思う、そのような自由な不自由さの境地で生きられるかということなのです。

 

3.神の回り道

 ここで終わる訳にもいかないので、もう一歩、進んでみましょう。パウロはユダヤ人がイエス・キリストを拒んだので、パウロは福音を異邦人に伝える道を歩んだというのです。つまらない説明をするより、聖書を読みましょう。11:11「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪(paraptōmaいわゆる「罪」ではなく「踏み外すこと」)によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」。ユダヤ人がイエス様を拒んだ。しかし、パウロは、そのユダヤ人たちを責めたり、自分の不甲斐なさを責めたりせずに、そうだ、替わりに私の愛と奉仕を必要とする人たちがいる。そうだ自分は、異邦人(私たち非ユダヤ人のこと)に伝道しよう。そうすると、「何んだ、あんな仕様もない人たちが神の恵みによって義(正しい)とされるのか、それでは自分で頑張るのをやめよう」という嫉妬心をユダヤ人に起こさせる、神様が道草をするというのか、回り道をされる、ユダヤ人がイエス様を拒んだので、異邦人に福音が伝わり、あのイスラエルが最後に神に立ち帰るのを神は忍耐して待っておられるというのです。まあ、何という理屈でしょうか。自分の無力のせいにしない、他者の頑なさを気にしない、神がすべてを支配し、もし神が愛の神であれば、神がその人を頑なにしておられるなら、神はその人に信仰を与えることもできるはずだ。だから、私たちのやるべきことは、「では自分の愛と奉仕を違う人に与えてみようか」ということなのです。15節「もし彼らの捨てられることが、世界の和解(神と異邦人の仲直り)となるならば、彼らが受け入れられることは、死者からの命でなくて何でしょう」とある通りです。

 「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」。神は皆さんの悲しみ、痛みをご存知です。皆さんは、神の忍耐、神の回り道を神の不在と考えるでしょうか? それとも、自分が救われるというような色気からも自由になって、愛する者たちのためならキリストから見捨てられようともという想いで生きるでしょうか。そのような想いを持ちつつ、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と賛美しましょう。(松見俊)