新型コロナウイールス感染の「緊急事態宣言」発令の中、ほぼ毎日、百道浜を散歩していました。その時期のゴーストタウンのような天神の街も記憶に残っていますが、誰もいない浜辺を散歩して感じたことは、私たち人間の存在は神が創造された世界を傷つけ、人間は環境には迷惑な存在なのではないか、余りに環境世界を「酷使」してきたのではないかと思い、何か消え入りたい感覚でした。沈黙の世界からの叫びのような声に耳を傾けねばと思いました。
戦後75年目を迎える8月、戦争で傷つけ、傷つけられた人たちを静かに想う月です。よく、「黙祷」と言葉を聞きますが、一般の日本人は何に向かって、何を黙って祈るのでしょうか?
沈黙ということを考えるときに気がかりな言葉は、アモス5:13です。「それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。」という言葉です。私が最後に奉職していた西南学院は創立百周年に当たり『西南学院百年史』を編纂する過程で西南学院の過去の歴史を顧みる作業をしていました。私は、『紀要』いう冊子が12冊出されましたが、2009年『西南学院史紀要』第四巻に私が当時のチャペルの模様を描き記し、先ほどのアモス5:13を引用しました。それが良かったのかどうかずっと考えてきました。絶対天皇制軍国主義の時代に、西南学院は『西南学院新聞』を見る限り、天皇賛美、満州、中国での戦争を欧米の植民地支配からアジアを解放とするんだという論調に満ちていました。たぶんそのような面はあったのでしょう。そこで私は次のように書きました。「今私たちがここに立って当時の指導者たちを批判することは容易いことである。預言者アモスは、『このような時代には賢い者は沈黙する(yiddōm, dāmam)。これは悪い時代だからである(5:13)』というが、…せめて時流の中で(西南学院の指導者たちは)、沈黙していたらと思うのは酷であろうか」(63頁)
今多少モノの言える時代に生きているという後ろめたさ、当時の西南学院の指導者たちの親族で今も学院に勤めている方もあり、そのような人を傷つけたくないという想いがありました。しかし、悪い時代には何もしゃべらず黙っていてほしかったというだけで良かったのだろうかという問いかけを自分にしてきました。「慈愛」をテーマにする預言者ホセアと違い、預言者アモスは吠えたけるライオンのように、当時の不正な政治家や貧しい人たちを抑圧する者たちに挑み続けたのではなかったか?というわだかまりです。それは、今朝読んでいただいたアモス5:10~15を思い浮かべればお判りでしょう。
1.「知恵」としての沈黙
アモス5:13はいかにも取ってつけたような節で、文脈から浮いています。皆さんは先ほどの司式者の朗読をどのように感じられたでしょうか?多くの聖書学者は、文脈から浮いているこの節を、いわゆる「知恵文学」という伝統の後代の加筆・編集であると考えています。基本的にそうであろうと思います。しかし、神に生きる人間の知恵として、沈黙の第一の意味は、時流に乗って余計なことを言わないことであるということは重要なことであると思います。行動的・活動的で、基本的にオシャベリで、余計なことを言いがちな人間としては心すべき「知恵」の言葉でしょう。「沈黙は金なり」とは日本の格言、英語の格言にもなっています。私たちは、話すことで人を傷つけたり、話を更にややこしくしてしまうのです。そのような意味で、社会的不正に手を染めて恥じず、信仰が単なる「儀式」だけになってしまっていた人々に対して、獅子が吠えるように、耳障りな神の言葉を語ったアモスだからこそ、ある意味、アモス書の文脈で浮いている分だけ、5:13は意味の深い言葉でしょう。
2.無視、拒否としての沈黙
聖書から少し離れますが、沈黙の第二の意味は、人を無視することです。教師や親が子どもを無視する、いわゆる、「ネグレクト」(neglect)です。むろん、子どもが親を無視することもあるでしょう。返事を拒否する陰険な「沈黙」があるのだと思います。「あなたとはもう話をしないよ」という冷たい沈黙です。だからこそ、聖書に証されている信仰者は、神に向かって「沈黙しないでください」と叫び、祈っているのです。詩編83:1は「神よ、沈黙しないでください(‘al domî)。黙していないでください。(‘l tehěraš )静まっていないでください(wə’al tišqot)」と言葉を重ねて祈ります。主なる神は、ほとばしる愛の神であり、情熱の神ですから、決して陰険で、冷酷な沈黙をすることはありません。しばしば、私たちの経験において、そのように感じられるとしても、主なる神は人間ほど冷酷ではありません。詩編50:3には、「わたしたちの神は来られる/黙してはおられない(wə’l yehěraš)。」と言われています。
3.信頼、聴くこととしての沈黙
しかし、今朝はもう一歩進んで、沈黙することの第三の意味を考えてみたいと思います。主なる神に信頼し、主なる神が語られるから、静まって耳を傾け、聴くこととしての沈黙です。(エレミヤの)哀歌3:27-28は私が若き日に心に留めた言葉です。「若いときに軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら、黙して(wəyiddōm)、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。」主なる神が救ってくださる。だから、わめき散らさず、沈黙していなさいというわけです。
さらに、主なる神が語る、これに聴く、という「濃厚な沈黙」というのでしょうか、そのような神への賛美のあり方があることに注目したいと思います。そして、詩編65:1に不思議な言葉が登場します。「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます」。青木澄十郎という人はこの節を「神よ、シオンにて汝に向かい沈黙は賛美なり」と翻訳しています。これは青木の自分勝手な解釈ではありません。dumîyāh という言葉は「沈黙」という意味もありますが、「黙って待つこと(awaiting)」を意味しています。ləka dumîyāh təhillāhという詩編65:1後半は英語の辞書によると to thee silent resignation is praise 汝に向かう沈黙の断念は賛美であるとなっています。Resignationとは、辞表を提出すること、辞任することです。神様の圧倒的な愛の語りかけに対して「お手上げ状態」、だから、「沈黙」という意味になります。 「あなたに向かって沈黙は賛美なり」「あなたに向かって沈黙こそ賛美なり」です。
新型コロナイウルスで私たちは主の日の礼拝において十分に讃美歌を歌うことができません。本当に残念なことです。しかし、濃厚な沈黙というか、沈黙をもって神の声を聴き、沈黙こそ賛美であるということもあるのではないかと思います。詩編30:13には、「わたしの魂があなたをほめ歌い、沈黙することのないようにしてください。」とあります。賛美には沈黙せずに、賛美歌を歌うことと、「神に向かう沈黙は賛美である」ということは、たぶん、矛盾しているのではなく、真実の両面なのです。62:1「わたしの魂は沈黙して(‘l elōhîm dūmîyāh)、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」。62:5「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ(‘k lêlohîm dōwmmî)。神にのみ、わたしは希望をおいている」。(松見俊)