1: 戦争のあと
今から、75年前、8月6日に広島に、8月9日に原子爆弾が投下されました。そして8月15日に、75年前の昨日に第二次世界大戦が終わりました。その時から、日本は、そして世界は、いったい何を求めて、どのように進んできたのでしょうか。戦争という悲劇を二度と起こさないために、平和を求める道を歩んでくることはできたのでしょうか。戦争が終わり、日本は高度成長期、バブル期を迎え、バブル崩壊後は、経済も落ち込み、今度は少数のいわゆる「勝ち組」が多くの「負け組」を支配する、格差社会とつながってきたのです。世界に広がる格差社会では支配する者、支配される者と分けられ、支配される者が、苦しみから脱出するために、武器を持ち、多くのテロリストが生まれていったのです。そして、2001年9月11日にアメリカにおいて同時多発テロが起こったのでした。今は、新型コロナウイルスという人類の危機ともいわれる中にあります。それでも人間は協力するのではなく、お互いに責任を擦り付け合ったり、またこのことを商売の良い機会として詐欺や転売をする人たちも現れているのです。戦後75年間の間、日本では戦争はありませんでした。では、ここに平和があり、喜びと平安が満ちあふれていたのでしょうか。人が人を傷つけ、支配し、経済という名の武器をもって、他国を傷つけてきたのではないか。そのような意味では、人と人の争いは絶えず続いているのです。
2: 再び命を得させてください
今日の聖書は9節から読んでいただきましたが、内容としては1節から続いています。【2 主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。3 御自分の民の罪を赦し、彼らの咎をすべて覆ってくださいました。4 怒りをことごとく取り去り、激しい憤りを静められました。】(2-4)これはバビロン捕囚による奴隷の立場から解放された、イスラエルの民の神様への賛美の歌です。イスラエルは、神様の御心から離れ、その国は分裂し、最終的にアッシリアとバビロニアによって滅ぼされたのです。そして多くの人々が奴隷としてバビロニアに連れていかれました。またこのバビロニアもペルシャに滅ぼされ、このペルシャによって、イスラエルの人々は解放されたのでした。人々は、この解放の恵みを喜び、神様に賛美したのでした。
しかし、5節からを見ると、少し様子が変わります。【5 わたしたちの救いの神よ、わたしたちのもとにお帰りください。わたしたちのための苦悩を静めてください。6 あなたはとこしえにわたしたちを怒り、その怒りを代々に及ぼされるのですか。7 再びわたしたちに命を得させ、あなたの民があなたによって、喜び祝うようにしてくださらないのですか。8 主よ、慈しみをわたしたちに示し、わたしたちをお救いください。】(5-8)
イスラエルの民はバビロニアから解放されました。喜びの賛美をもって自国に帰ってきたのです。しかし、そこに待ち受けていたのは、荒れ果てた国、破壊された神殿でした。イスラエルの民は、その光景を見たときに、神様の救いではなく、神様の怒りをみたのです。その中でイスラエルの民は、「再び、命を得させてください」と、もう一度新しく生きる力を与えてくださいと願い、祈ったのでした。「再び、命を得させてください」。これが絶望の光景に出会った時のイスラエルの反応でした。イスラエルの民は、荒れ果てた国を見て、絶望を覚えた。しかし、そのような中で、主に救いを求めたのです。つまり、イスラエルは、これまで歩んできた自分たちの歩みが間違っていたことを認め、悔い改め、神様に目を向け、神様に命を求めたのです。
それに対して、私たちは、第二次世界大戦という戦争の後に何を見て、どのように生きてきたのでしょうか。イスラエルのように、悔い改めて新しく歩みだすことができたのでしょうか。「再び、命を得させてください」と、「神様に」命を願い求めてきたのでしょうか。
3: 主が平和を宣言される
聖書は言います。【9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます、御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように。】(9) 聖書は、「主が平和を宣言される」というのです。
ここでの「宣言」という言葉は、別の訳では「約束」と訳されています。神様の言葉は、変わることのない言葉、必ず実現される言葉で、神様の語られる「宣言」は「確かな約束」なのです。イスラエルが、神様に救い出された時、目の前には大きな困難がありました。それでも尚、イスラエルは神様に目を向け、神様の約束を信じて「再び、命を得させてください」と、主の救いを求めたのです。そしてここでも同じように、詩人は、神様が語られる平和の約束を信じて、「わたしは神が宣言なされるのを聞きます」と、「聞いて従っていこう」と応答するのです。
神様は、私たちにも平和を宣言されます。その宣言、約束は、主イエス・キリストを通して実現されたのです。そして、神様は、この約束に応答すること、この平和の宣言をきちんと聞くことを願っておられるのです。
平和を作り出すために、私たちには何ができるでしょうか。それは10節にあるように「主を畏れる者」となることです。畏れをもって、主の約束を心に受け入れることです。神様は「私はあなたを愛している。そしてあなたの隣人をも愛している。」と語ります。私たちがこの神様の言葉を畏れをもって、受け入れる時、私たちの生き方は変えられていくでしょう。平和を作り出すために、私たちには何ができること。それはこのイエス・キリストによる神様の平和の宣言を、畏れをもって聞き、新しい命をいただき歩みだすことです。
4: 正義と平和
今日の箇所11節では【慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけをする】(11)と語ります。「正義」という言葉はとても危険な言葉でもあります。多くの人々が「正義」を掲げ、戦争を行ったのでした。「自分は正しい」、そして他者は間違っている、その間違っている者たちの生き方を正すために、正義の実現のためには少しの犠牲は仕方がないとして、力や武器をもったのです。
また「平和」という言葉も、間違えてしまうと大きな問題が起こります。現在の格差社会においては「弱い者」が声を挙げないことで「平安」が保たれているということができるでしょう。学校でいえば、いじめられている子がいたとしても、その子が我慢すれば、学校での平安は保たれる。しかしそこに正義はないのです。ある意味、正義を実現するためには、平和が脅かされ、平和を保とうとすることによって正義を踏みにじられる現実があるのです。
しかし、主なる神様が、イスラエルをバビロンから解放された時、そこに正義と平和の出来事が実現された、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけをした」のです。そしてイスラエルはその解放を受けて、悔い改め、神様に「再び私たちに命を得させてください」と願いました。今、神様は私たちに主イエス・キリストを送ってくださいました。それは私たちが、自分の怒りや憎しみに囚われるのではなく、そこから解放され、互いに愛しあい、喜びで満たされ生きるためです。私たちは神様の平和の宣言を聞き、神様に「命を、そして平和を得させてください」と求めていきましょう。そして、私たちは今、自分の生きる、この時に、この場所に、神様の平和が実現されるために、自分ができること、するべきことを考えていきたいと思います。(笠井元)